数学の美学
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 14:19 UTC 版)
多くの現場の数学者は、自分が課題とするテーマに対してある種の美的感覚を感じるがゆえに、そのテーマに惹き付けられている。哲学は哲学者に任せ、数学者は数学に帰ろうという意見を時折聞くが、それはおそらく、数学の美がそこにあるからなのである。 H・E・ハントリーは著書『黄金比』で、他人によって数学上の定理が証明されるのを読んだり理解したりしたいという感情は、芸術の傑作を鑑賞したいという気持ちに通じると述べている。証明を読む読者は、その証明を行った元々の著者と同じように理解できたとき、著者に負けない爽快さを感じる。ハントリーによればそれは、芸術の鑑賞者が、その作品を描いた画家や造形した彫刻家と同様の爽快さを感じるのと同じようなものなのである。実際、数学や科学の著作を文学に対するような仕方で研究することができる。 フィリップ・J・デイヴィスとルーベン・ハーシュは、数学的美の感覚は現場の数学者たちにとって普遍的なものであると述べている。例えば、数学者たちが√2が無理数であることを証明する仕方には2種類ある。第1のやり方はエウクレイデス(ユークリッド)によって始められた伝統的な証明法で、背理法を用いる。第2のやり方は算術の基本定理に関連するもっと直接的な証明法であるが、デイヴィスとハーシュによれば、これが問題の核心を衝くものである。つまり、第1の証明法より第2の証明法の方が問題の本質に近いがゆえに、数学者たちは後者の方を美的関心をそそられる。 ポール・エルデシュの有名な例では、最もエレガントないし最も美的な数学的証明が掲載された一冊の「本」があると仮定されている。結果として「最もエレガント」な証明が一つであるかどうかは、意見が分かれる。グレゴリー・チャイティンはこの考えに反対している。 数学者の美的感覚やエレガントさの感覚はどう見ても曖昧模糊としているという批判が哲学者たちによって何度も行われてきた。とはいえ、数学の哲学者も同様に、2つの証明がどちらも論理的に正しい場合、どちらかが他方より望ましいと言える理由は何かを探し求めてきた。 数学に関する美学のもう一つの側面は、非倫理的とか不穏当とされる目的のために数学を使うことができるということに対する数学者の見解である。この見解を説明したものの中で最も有名なのは、G・H・ハーディの著書『一数学者の弁明』に見出される。ハーディによれば、純粋数学は戦争その他の目的のために用いることができないがゆえに、応用数学よりも美的に優れている。
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