数学の哲学の歴史概略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/15 14:19 UTC 版)
歴史上、多くの思想家が、数学とは何かに関して彼らの考えを明らかにしてきた。今日でも数学の哲学者たちの中には、この種の問いとその成果をあるがまま説明しようとする人々もいるが、他方で、単純な解説に飽きたらず、批判的分析へと進む役割をもって任じる人々もいる。 西洋哲学と東洋哲学の両方に、数学的哲学の伝統がある。西洋の数学の哲学は、ピタゴラス教団の教祖ピタゴラスを源流として、数学的対象の存在論的地位を研究したプラトンと、論理学や無限(実無限と可能無限)に関する諸問題を研究したアリストテレスにまで遡る。数学に関するギリシア哲学は、彼らの幾何学の研究の強い影響の下にあった。かつてギリシア人は、1は数ではなく、むしろ任意の長さの単位であるという意見を持っていた。数は、多であると定義された。それゆえ、例えば、3は、単位長の多を表しており、本当の意味の数では決してなかった。また同様の理由で、2は数ではなく、1対(つい)という基本概念であるとする議論が行われた。この理解は、「直線・辺・コンパス」という、たぶんに幾何学的なギリシアの視点に由来している。その視点とは、幾何学的問題において描かれたいくつかの線が最初に描いた任意の長さの線との比で測定されるのと同様に、数からなる線上に置かれたそれぞれの数は、任意の初めの「数」つまり1との比で測定される、というものである。これらの初期のギリシアの数の概念は、後になって、2の平方根が無理数であるという発見によって、打ち倒された。ピタゴラスの門人であるヒッパソスは、単位正方形の対角線は、その辺と通約不能であることを示した。換言すると、彼は、単位正方形の対角線とその辺の比を正確にあらわす(有理)数が存在しないことを証明した。これが原因となり、ギリシアの数学の哲学は再検討されることとなった。伝承によれば、この発見によって傷つけられたピタゴラス教団の教徒達は、ヒッパソスが彼の異端な考えを広めるのを防ぐために、彼を殺害した。 ライプニッツとともに、焦点は数学と論理学の関係へと、強力に移動した。この見方はフレーゲとラッセルの時代を通して数学の哲学を支配したが、19世紀終期と20世紀初頭における発展によって疑問を付されるようになった。
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