敗走・最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 15:40 UTC 版)
その後、信頼を見捨て息子の義平・朝長・頼朝、大叔父の源義隆(陸奥六郎義隆)・平賀義信・源重成(佐渡重成)、家臣で乳兄弟の鎌田政清・斎藤実盛・渋谷金王丸らを伴い東国で勢力挽回を図るべく東海道を下るが、その途上たび重なる落武者への追討隊との戦闘で、朝長・義隆・重成は深手を負い命を落とした。また頼朝も一行からはぐれて捕らえられ、義平は別行動で北陸または東山道を目指して一旦離脱するが再び京に戻って潜伏し、生き残っていた義朝の郎党・志内景澄と共に清盛暗殺を試みるが失敗する。 義朝は馬も失い、裸足で尾張国野間(現愛知県知多郡美浜町)にたどり着き、政清の舅で年来の家人であった長田忠致とその子・景致のもとに身を寄せた。しかし恩賞目当ての長田父子に裏切られ、入浴中に襲撃を受けて殺害された(『平治物語』)。享年38。政清も酒を呑まされ殺害された。京を脱出して3日後の事であった。『愚管抄』によれば長田父子の陰謀を察知した義朝が政清に自らの首を打つよう命じ、斬首したのちに政清は自害したとされる。年が明けた正月9日、両名の首は獄門にかけられた。 伝承によれば、義朝は入浴中に襲撃を受けた際、最期に「我れに木太刀の一本なりともあれば」と無念を叫んだとされる。義朝の墓はその終焉の地である野間大坊の境内に存在し、上記の故事にちなんで多数の木刀が供えられている。また、境内には義朝の首を洗ったとされる池がある。 平賀義信、斎藤実盛は無事に落ち延びることに成功する。義信は後に頼朝の挙兵に従って鎌倉幕府の有力御家人として生涯を全うし、一方実盛は平家方について源氏方と戦うことになる。 父や弟たちを滅ぼし、河内源氏内での優位を確立してからわずか3年で死を迎えるが、義朝が東国に築いた地盤と嫡子頼朝に与えた高い身分は、後の頼朝による挙兵の成功、ひいては鎌倉幕府成立への礎となった。 また、娘である坊門姫の子孫に持明院統の最初の天皇である後深草天皇がおり、皇族と旧皇族の共通先祖に当たる貞成親王はその子孫である(即ち、義朝は皇族と旧皇族の女系の先祖に当たる)。 系図などによる異説としては、鎌倉幕府御家人の八田知家は、義朝の落胤で、母は宇都宮朝綱の娘八田局で初め朝家(読み同じ)と名乗ったという記述もある。
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