政府による楠社創建
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前述の通り、慶応3年(1867年)11月に尾張藩は建白を出した。翌年3月、それを知った薩摩藩士岩下方平は、自分たちが始めた楠社創建を他の藩に成し遂げられるのは歯がゆく感じたのだろう、薩摩藩が創建するとはせずに、国家のことであるから一藩に任すのはよろしくなく、政府によって建てられるべきだと意見した。 岩下は兵庫裁判所(兵庫県の前身)に配属されていたが、同じ兵庫裁判所に配属されていた元尾張藩士中路権右衛門・長州藩士伊藤博文・薩摩藩士寺島陶蔵・薩摩藩士岩下清之丞・薩摩藩士東条慶二の連名を得て、1868年(明治元年)3月21日、兵庫裁判所総督兼参与東久世通禧に楠社創建を建白した。 実際に始まった湊川神社創建の実行はここに求めてよい。東久世通禧は七卿落ちで京都を追われた公家の一人である。東久世は3月24日に大阪に行き、大阪行幸で大阪に滞在している明治天皇に奏上して、ただちに聴許された。東久世は岩下に政府に内定をもらったことを伝え、神社の設計図などを調査するように命じた。 兵庫裁判所が創建に関わる実地調査を始める一方、政府が祭祀を司る神祇事務局も4月14日に楠社創建について神祇事務局に任せるように上申した。維新以降、祭政一致に基づき、全ての神社は国家が管理するべきものとなったが、そういう原則の中で、新たな神社、それも国民の第一の模範となる人物を顕彰するという国家的に重要な神社の創建を一藩の事業として行わせるわけにはいかなかったのである。 こういった上申を受けて太政官より神祇事務局へ、同年4月21日には次の沙汰書が正式に達せられた。これをもって政府の決定と見ていいだろう。 太政更始之折柄表忠之盛典被為行天下之忠臣孝子ヲ勧奨被遊候ニ付テハ楠贈正三位中将正成精忠節義其功烈万世ニ輝キ真ニ千歳之一人臣子之亀鑑ニ候故今般神号ヲ追諡シ社壇造営被遊度思食ニ候依之金千両御寄付被為在候事 但正行以下一族之者等鞠躬尽力其功労不少段追賞被遊合祀可有之旨被仰出候事 慶応四戊辰四月廿一日 楠木正成の忠義功績は「万世」に輝き、1000年に一人の存在で、「臣子之亀鑑」とするべき人物なので、神号を贈り、神社を創建するとしており、明治天皇の思召しによって、金1000両が下されたとしている。この時点で既に楠木正成だけでなく、正行以下一族も合祀することが述べられていることは注目に値する。 同日、神祇事務局より兵庫裁判所に、楠社創建が決まり、有志の支援を許すこととなったので、兵庫裁判所において取計うように達している。これを受けて、兵庫裁判所は、墓所の片隅に札を掲げ、国家による楠社の創建が一般に公表され、それを援助するものを募ることとなった。 1870年(明治3年)6月、兵庫県が造営の事務を総括することになった。1871年(明治4年)1月、兵庫県は小野大属准席、増井少属を御造営掛兼務として、知事・大参事・会計局・庶務局・出納局が事務を担当することになった。
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