操業開始と挫折
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 23:35 UTC 版)
名古屋電灯は1917年6月、社内に「製鉄部」を設置し電気製鉄の研究を開始。同時に名古屋市南区東築地5号地(現・港区竜宮町)において工場建設に着手し、付近の南陽館に仮事務所を開設した。この工場建設地に隣接する6号地(現・港区大江町)にも工場用地を確保しており、将来的には5号地の一角から全域、そして6号地へと拡大し、一大製鉄所として発展させていく計画であった。木曽電気製鉄設立時の計画大要には、製銑用電気炉7基を設ける製銑工場、コークスおよび電気炉用電極・耐火煉瓦を製造する附帯工場、銑鉄をもとに鋼を製造する製鋼工場、製鋼工場からの鋼塊を圧延ないし鋳造・鍛造して製品を製造する製品工場からなる製鉄所を建設し、軍需向けおよび造船・建築用の鋼材を生産する、と記された。 事業の準備中に、化学工業は電気事業に比べて事業の浮沈が多く性格が異なることから、電源開発部門と同様に名古屋電灯から分離する方針が立てられた。そして1918年9月8日、木曽電気製鉄の発足により名古屋電灯製鉄部は同社に継承された。同社の設立趣意書によれば、将来的な石炭資源の涸渇に備えて実用化されつつある電気製鉄事業を起こし、木曽川の水力を開発してその電力をもって操業、余剰電力も一般用に供給して「聊カ国家ニ貢献スル」ことを事業の目的として強調した。また、製鉄部などの譲渡を決議するために先立って同年2月に開かれた名古屋電灯臨時株主総会では、社長の福澤桃介が電気製鉄事業の意義を、木曽川の発電所群が完成した際に見込まれる余剰電力の受け皿である、と説明していた。 木曽電気製鉄の発足当日(創立総会当日)、5号地の工場では2,000キロワット電気製銑炉の火入れ式が挙行された。最初の運転結果は良好で、多量の銑鉄が生産できた。世間の耳目を集める電気製銑事業に成功したということで工場の操業は勢いづいたが、それも束の間、折からの電力不足で作業の中断を余儀なくされてしまう。電力事情が好転したならば再開するはずであったが、第一次大戦終結の影響を受けた鉄鋼需要の減少、輸入銑鉄の流入などで銑鉄市況が低落傾向となり、加えて技術上の問題も発生したため事業継続が困難な状況に追い込まれた。1919年(大正8年)1月、120キロボルトアンペア合金炉1基を設置しフェロマンガンの製造を始めたものの、これも電力不足のために4月半ばから作業中止となった。このような会社の看板である電気製鉄事業の誤算について、1919年4月に開催された会社設立後最初の株主総会では、創立当時の役員の説明に反するとして一部の株主から批判が出たという。
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