挙誠の登場とは? わかりやすく解説

挙誠の登場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 17:20 UTC 版)

仁賀保挙誠」の記事における「挙誠の登場」の解説

挙誠は仁賀保氏お家騒動敗戦により当主が挙久から4代続けて非業の死遂げた後に、一族である赤尾津氏から養子入った仁賀保氏中興の祖である。仁賀保氏歴代山内上杉家またその分家の越後上杉家長尾氏と関係が深く本庄氏大宝寺氏と共に上杉氏影響受けてたらしい上杉謙信死後長尾上杉氏影響にあった出羽庄内大宝寺氏当主大宝寺義氏独立目指すと、仁賀保氏大宝寺氏らと戦うことになる。また、義氏は仙北小野寺義道同盟し背後より矢島氏仁賀保氏攻めさせた。この為仁賀保氏国力大きく落とし天正10年1582年)頃より翌11年1583年)にかけ、義氏に何度大きく攻め込まれた。このため仁賀保氏5代当主の重挙が死亡後独自に当主立てられなかったものと考えられる6代当主八郎没した後、仁賀保宮内少輔など有力な一族居たにもかかわらず、挙誠が赤尾津氏より養子入ったのは、赤尾津氏支援した安東愛季意思働いたものか。 挙誠が家督継いだ天正13年1585年)の時点仁賀保氏は、小野寺氏の有力一族である西馬音内(にしもない)氏の娘を娶っていた矢島満安鋭く敵対していたが、出羽庄内地方最上義光勢力伸ばし上杉方の大宝寺氏戦闘繰り返しており、背腹両面に敵を受けるわけには行かないので、矢島満安和睦し庄内戦に専念したこの頃大宝寺義氏重臣東禅寺義長謀反によって殺され、義氏の弟の義興が当主となっていた。義興と東禅寺義長対立しており、更には大宝寺氏本庄繁長上杉景勝が、東禅寺氏を最上義光それぞれ支援していた。この戦い本庄繁長庄内攻め込み東禅寺義長討ち取り最上軍殲滅した事によりケリがついた。 さてこの騒動の間、最上義光不利になりつつあった庄内での戦い有利に進めるため、由利郡国人領主にも使いし、自身与同する様に要請している。この際、義光は豊臣秀吉惣無事令実行する代官であるという立場強調している。無論秀吉威光以って仁賀保氏らを自身配下にしようとする魂胆であるが、あまり効果無かった様である。仁賀保氏らは秀吉には出仕するが、義光の命令聞かないという立場をとったようである。天正16年1588年)になり義光は出羽探題に任ぜられたとして、再び挙誠らに圧力をかけて来たが、越後から本庄繁長来襲して最上軍粉砕した事は先述した。これ以後庄内は完全な上杉となった。この時、仁賀保氏らは庄内出兵して最上軍駆逐し回ったらしい。この上軍と挙誠の動向からして庄内領有権歴代上杉氏のものであり、上杉軍仁賀保氏らは豊臣秀吉の惣撫事令に基づく天下軍として最上方を成敗したという形であったらしい。 この直後、義光は仁賀保氏らを揺さぶるためこれと敵対する矢島満安使者出し、これを懐柔することに成功する。挙誠らは満安の単独行動良しとせず、奸智により矢島氏攻め滅ぼし矢島氏利用して由利郡自身領土にしようと画策した義光の野望挫いた以後矢島郷は仁賀保氏領となり、秀吉小田原征伐加わり仁賀保郷・矢島郷の領有認められ天正18年1590年12月24日付の知行宛行状により、由利郡半分領有することが決定した。 なお、天正16年1588年)に最上軍粉砕した本庄繁長率い上杉軍天下軍として賊軍成敗するという性質持っていたと解釈すべきである故に仁賀保氏由利衆もこれに加わったものであり、再び翌天正17年1589年)に安東氏内紛である湊騒動に対して由利衆は天下軍として上杉氏より派遣され秋田実季支援して戦を鎮めた。よって関東奥羽惣無事令出されていたのにもかかわらず上杉仁賀保らの戦闘私戦とは考えられず、天下軍であるとは考えられなかった実季は改易免れたが、湊安東家の領土没収され天領となった

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