仁賀保氏
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/03 08:32 UTC 版)
「仁賀保藩」も参照 由利郡仁賀保(現・にかほ市平沢)付近を中心に勢力があった武士団。先祖は大井氏と称したが家紋や通字からは大江氏との関係が指摘されている。所領とした仁賀保は、平沢、象潟地方の総称である。矢島氏とは近い同族関係にあったが、一族内の主導権争いから終始敵対し、滝沢氏と組み、地理的な要因から主に大宝寺氏の影響下にあり、小野寺氏と結んだ矢島氏と争った。赤尾津氏から養子に入った仁賀保挙誠の代に豊臣秀吉により由利地方で2番目に大身の3,716石の所領を安堵された。なお、軍記物の記述では文禄の役の際の領国の混乱に乗じて矢島氏を滅ぼしたことになっているが、惣無事令に反するため私闘は不可能であり、1588年(天正16年)ころの出来事ではないかとする見解がある。関ヶ原後に加増され常陸国武田5,000石となり、更に大坂の陣での功績により旧領に戻り一万石の仁賀保藩を立てた。挙誠死後、分家により3家に分かれ、それぞれ旗本となった。
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