仁賀保氏の成立とは? わかりやすく解説

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仁賀保氏の成立

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/08 17:20 UTC 版)

仁賀保挙誠」の記事における「仁賀保氏の成立」の解説

仁賀保氏清和源氏小笠原氏流の大井氏流れ汲み、その祖先は元々は信濃大井荘領主であった大井朝光である。朝光は叔母である大弐局より出羽国由利郡相続し、その縁で由利郡信濃大井氏繁栄することとなる。鎌倉時代初期大井氏信濃大井荘本貫の地とし、地頭代派遣して由利郡支配していた。これは鎌倉時代末期まで続いていたと考えられる当初は「津雲出郷」と呼ばれた矢島郷(現在の由利本荘市矢島町付近)を支配した矢島氏地頭代であったらしい。矢島氏の祖と考えられる大井政光仁賀保氏の祖と考えられる甲斐守光長は兄弟であるらしく、光長の孫の友光の代には仁賀保郷(現在のにかほ市付近)に進出してたらしい仁賀保氏菩提寺である禅林寺にはこの時代からの位牌残っている。 後、建武の新政南北朝などの混乱期経て由利郡大井氏からの独立の気運があったと考えられ、それを制するために新たに地頭代として任命され由利郡移住してくる者達が多く居たようである。特に、後に赤尾津(あかおつ)氏とも呼ばれる小介川(こすけがわ)氏は大井氏分家として、由利郡北から雄物川河口部にかけて勢力広げ室町時代中期には醍醐寺三宝院門跡領横領するほど勢力増した。友光の四男の友挙は彼らを説圧するために鎌倉より下された伝えられる無論当時東北地方政治状況から勘案すれば、事は簡単なものではなく関東管領出羽探題室町幕府思惑複雑に絡んだものであった考えられる当時大井宗家当主である持光は鎌倉公方足利成氏外祖父にあたり関東管領である上杉氏対立関係にあったまた、醍醐寺荘園横領した大井氏分家の小介川氏赤尾津氏)の存在もあり、上杉氏と近い関係にあった大井氏分家の友挙の由利郡下向は、非常に政治的なものであったのだろう。 友挙の子大和守挙政は、主な領地名である仁賀保郷を以って仁賀保」を名字とした。仁賀保の名は大永4年1524年)の長尾為景斯波政綿書状中に出てきており、この時代仁賀保氏中央政権に対して馬の献上をもしていたらしき事が推察される。 挙政の子の挙久は優れた人物で、兵を庄内地方進め日本海に浮かぶ飛島切り取るなど活躍したが、矢島氏との戦い敗れて討死したことにより仁賀保氏衰退した。この時代北出羽では湊安東氏小野寺氏京都御扶持衆であり、仁賀保氏定かではないが、同じ由利郡国人領主である滝沢氏京都代官所持っていた事、御用商人来訪などからしても、中央政権に近い有力な国人領主としての地位確立してたらしい

※この「仁賀保氏の成立」の解説は、「仁賀保挙誠」の解説の一部です。
「仁賀保氏の成立」を含む「仁賀保挙誠」の記事については、「仁賀保挙誠」の概要を参照ください。

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