折田彦市と「自由の学風」
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「折田彦市」の記事における「折田彦市と「自由の学風」」の解説
三高の「自由」の精神は、しばしば折田の人格と不可分のものとして捉えられる。折田自身が「自由」について特に書き残したものはないというが、明治30年代頃から学生の間で「自由」を校風とする雰囲気が醸成されるようになり、それが折田校長の人格に結び付けられるようになったようである。折田退任後間もない1913年(大正2年)には早くも、学内雑誌『嶽水会雑誌』に掲載された小論に「前折田校長の人格其物が三高の精神となって表現したのが自由である」と記された。大城富士男が著した『神陵小史』(1935年)には、三高の自由は折田先生の人格から出たものであると記す。大学分校時代に折田の薫陶を受け、のちに同志社総長になった牧野虎次は『三高八十年の回顧』において、「三高の歴史は折田先生の頌徳史に外ならぬ」と述べた。 折田の教育方針は「無為にして化す」と表現されるもので、生徒の人格を最大限認め、可能な限り干渉を排する姿勢を貫いていた。高等中学校時代の1889年(明治22年)に、教職員と生徒の間で互いに「さん」付けで呼び合う原則を定めたことは、生徒の人格を尊重する姿勢の象徴として言及される。 折田校長の下で三高生徒の間に「自由」の気風が醸成されたが、三高卒業生が編纂した『神陵史』によれば、学校全体が共有する学風として定着するには相応の時間を要したという。三高では校長が交替するたびに、生徒が新校長に校風の遵守を求めるということが風習であったが、その始まりは、1910年(明治43年)、折田校長退任式と同時に行われた酒井校長就任式である。酒井が新任挨拶の中で三高の「自由主義的」な校風に触れ、その放恣を厳しく戒めたところ、生徒たちは次々に発言を求め、伝統と校風を強調するとともに、新校長にその遵守を迫ったという。1922年(大正11年)には、生徒の統制を強めた第3代校長金子銓太郎に対する激しい排斥運動が起こっている。金子に代わった第4代校長森外三郎以後、溝淵進馬、森総之助といった歴代の校長は折田校長時代の三高を卒業した人物であり、その学校運営は折田を範としたものになった。 三高の「自由の学風」は、隣接地にあり人的な交流も活発であった京都帝国大学の学風に影響を与えたと考えられており、新制京都大学の「自由の学風」にもつながっているとされる。後年、折田の銅像へのいたずらが激化した際、京都大学当局は「折田彦市先生は、第三高等学校の校長として京大の創設に尽力し、京大に自由の学風を築くために多大な功績を残した人です」という看板を設置している。
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