折田彦市と「自由の学風」とは? わかりやすく解説

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折田彦市と「自由の学風」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/11 07:19 UTC 版)

折田彦市」の記事における「折田彦市と「自由の学風」」の解説

三高の「自由」の精神は、しばしば折田人格不可分のものとして捉えられる折田自身が「自由」について特に書き残したものはないというが、明治30年代頃から学生の間で「自由」を校風とする雰囲気醸成されるようになり、それが折田校長人格結び付けられるようになったようである。折田退任間もない1913年大正2年)には早くも学内雑誌『嶽雑誌』に掲載され小論に「前折田校長人格其物が三高精神となって表現したのが自由である」と記された。大城富士男が著した『神陵小史』(1935年)には、三高の自由は折田先生人格から出たのであると記す。大学分校時代折田薫陶を受け、のちに同志社総長になった牧野虎次は『三高八十年の回顧』において、「三高歴史折田先生頌徳史に外ならぬ」と述べた折田教育方針は「無為にして化す」と表現されるもので、生徒人格最大限認め可能な限り干渉排する姿勢貫いていた。高等中学校時代1889年明治22年)に、教職員生徒の間で互いに「さん」付け呼び合う原則定めたことは、生徒人格尊重する姿勢象徴として言及される折田校長の下で三高生徒の間に「自由」の気風醸成されたが、三高卒業生編纂した『神陵史』によれば学校全体共有する学風として定着するには相応時間要したという。三高では校長交替するたびに、生徒新校長に校風遵守求めということ風習であったが、その始まりは、1910年明治43年)、折田校長退任式と同時に行われた酒井校長就任式である。酒井新任挨拶の中で三高の「自由主義的」な校風触れ、その放恣厳しく戒めたところ、生徒たち次々発言求め伝統校風強調するとともに新校長にその遵守迫ったという。1922年大正11年)には、生徒統制強めた第3校長金子銓太郎対す激し排斥運動起こっている。金子に代わった第4代校長森外三郎以後溝淵進馬森総之助といった歴代校長折田校長時代三高卒業した人物であり、その学校運営折田を範としたものになった三高「自由の学風」は、隣接地にあり人的な交流も活発であった京都帝国大学学風影響与えた考えられており、新制京都大学「自由の学風」にもつながっているとされる後年折田銅像へのいたずら激化した際、京都大学当局は「折田彦市先生は、第三高等学校校長として京大創設尽力し京大に自由の学風を築くために多大な功績残した人です」という看板設置している。

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