「自由の学風」
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「第三高等学校 (旧制)」の記事における「「自由の学風」」の解説
1910年(明治43年)11月、初代校長折田彦市が辞任。折田の下で生徒の間に「自由」の気風が醸成されたが、三高卒業生が編纂した『神陵史』によれば、学校全体が共有する学風として定着するには相応の時間を要したという。第3代校長金子銓太郎は生徒の統制を強め、また古参教員を免職したことから、生徒や卒業生らが猛反発し、1922年(大正11年)には激しい排斥運動に発展した。大正デモクラシーの気風も相まって、世論は生徒に同調的であり、金子は静岡高校創立準備委員長に転任することとなった。 金子に代わった第4代校長森外三郎は折田校長時代に三高を卒業した人物であり、折田に範をとった「自由の学風」が定着することになる。なお、森外三郎以後の溝淵進馬・森総之助もまた折田時代の三高卒業生である。 1930年(昭和5年)7月には、門限の設定など寮の取り締まり強化を契機として三高自由寮でストライキが発生。翌年、森外三郎は校長を辞任することとなる。 1934年(昭和9年)、室戸台風により本館(木造)が倒壊。1936年(昭和11年)に本館が新築された。
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