「自由党」結成
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「韓国における政党史」の記事における「「自由党」結成」の解説
李承晩大統領は就任当初、超然主義を採り、与党(この場合の与党は大統領本人が所属している政党)を持たなかった。しかし、朝鮮戦争直前に行われた第2代総選挙(1950年5月30日)にて前回選挙をボイコットした南北協商派や中間派が参加し、李承晩と距離を置く無所属候補が多数当選した。そのため、李承晩は自身の与党となる「自由党」を結成し、1952年に半ば脅迫的な手段で間接選挙から直接選挙制にするための憲法改正を実施した(釜山政治波動)。 自由党は、政府の強い影響下にあった大韓婦人会、大韓青年団、大韓労働組合総連盟(労総)、大韓農民組合総連盟(農総)など院外団体を動員し李承晩自身の当選を確実なものとするために作られた政党で、本来の意味における政党とは言いがたかった。権力者が政権を獲得した後で、権力維持の手段として政党(与党)を急造するという第五共和国までの韓国における与党結成パターン(先・政権獲得、後・創党)はこの時、作られたといえる。初代総選挙と第2代総選挙では、無所属や政党ではない社会団体が議会内の多数を占めていたが、1954年の第3代総選挙では与党自由党が半分以上の議席を占めた。他方で野党勢力は、李承晩と袂をわかった韓民党の後身政党である民主国民党(民国党)が全議席の7%台、それ以外の政党を含めても10%台に留まり、過去2回の総選と同じく無所属当選者が自由党に次ぐ、第二勢力になった。
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