所有の歴史
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「聖母子 (ドゥッチョ、メトロポリタン)」の記事における「所有の歴史」の解説
1200年代と1300年代の絵画には通常のことであるが、19世紀半ば以前の本作の所有者と所在はわかっていない。作品の最初の知られている所有者は、ロシアのグレゴリ・ストロガノフ伯爵(1829–1910年)であり、どの芸術家にも帰属されていない状況で、作品を画商の店で見つけたと述べた。 1904年に伯爵は、作品をシエナのパラッツォ・プブリコでの展覧会、「シエナ古典芸術展(Mostra d'arte antica senese)」に貸し出した。伯爵は作品をローマの自身の宮殿に保管した。 1904年の「シエナ古典芸術展」のレビューで述べられているように、美術史家のメアリー・ローガン・ベレンソンは、この作品がドゥッチョの「最も完璧な」作品のうちの1つであると信じた。したがって、本作が展覧会の鑑賞者、特に芸術と美術史の分野の鑑賞者に畏敬の念を喚起したことは驚くに値しない。1910年にストロガノフ伯爵が亡くなった後、作品はアドルフ・ストクレ(1871〜 1949年)が収集した美術コレクションに加わり、そのため、作品の名称は『ストクレの聖母』となった。ストクレは、自身の豊かな芸術のコレクションを非常に注意深く扱うと考えられていた。そして、作品の独特で、かつ非常に危うい性質を保持するため、最も理想的な環境に保管した。ドゥッチョの本作は、1930年と1935年にわずかの展覧会で展示され、ストクレの家で選ばれた、ごく一部の客にだけ鑑賞された。 1949年にストクレと彼の妻が亡くなった後、夫妻の2人の子供たちは、ストクレの残りの作品とともにドゥッチョの『聖母子』を相続した。取得が熱望されていた本作は研究者にとって興味深いものであったが、幸いにも絵画の制作時期とその修復過程を記録した写真は別として、研究者は作品に接することができなかった。作品が修復される前の写真と、その後のマイナーな補筆はすべて、現在、鑑賞者に1300年に制作された本来の絵画の過去と本当の印象を明らかにしている。本作は、2004年の秋にメトロポリタン美術館によって推定4500万米ドルで熱狂的に取得された 。作品は、美術史上における美的意義だけでなく、ドゥッチョの既知の絵画が世界に13点しかないため、非常に価値のある購入であった。
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所有の歴史
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「ナイトホークス (美術)」の記事における「所有の歴史」の解説
1942年晩冬にキャンバスを完成させるや、ホッパーは、レーン(Rehn)のところに置いたが、そこは普通は彼の絵が売りに置かれる画廊であった。それは約1か月間、そこにあった。聖パトリックの祭日に、エドワードとジョー・ホッパーは、ニューヨーク近代美術館(Museum of Modern Art)でのアンリ・ルソーの絵の展覧会に出席したが、それはシカゴ美術館(Art Institute of Chicago)のディレクターダニエル・キャットン・リッチ(Daniel Catton Rich)によって組織されていた。リッチは、近代美術館のディレクターであるアルフレッド・ H・バー・ジュニア(Alfred H. Barr, Jr.)とともに、出席していた。バーは、『Gas』のことを熱狂的に話したが、これはホッパーが1年前に描いていたし、「ジョーは彼に、『ナイトホークス』を見にレーンのところに行かなくてはなりませんと語った。結局のところ、行き、『ナイトホークス』を「ウィンスロー・ホーマーの作品なみに」すばらしいと公言し、まもなくシカゴのために購入の手筈を取ったのは、リッチであった。売値は3,000ドルであった。以来、絵はシカゴ美術館のコレクションのままである。
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