成立から滅亡までとは? わかりやすく解説

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成立から滅亡まで

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/27 14:44 UTC 版)

皆川氏」の記事における「成立から滅亡まで」の解説

第一次皆川氏長沼時宗の子宗員が、寛喜年間下野国皆川荘(現在の栃木県栃木市)に拠点構えたところに始まり、続くこと6代にして、宗常が元亨3年1323年)に鎌倉幕府執権北条高時背いて自害し所領没収され断絶した第二次皆川氏系譜上は室町時代長沼氏嫡流長沼憲秀の子孫とされているが、憲秀の弟で家督争い敗れた次郎の子孫とする説もある。永享の乱の際に古河公方側について、同勢力の影響にあった皆川荘に拠点構えたのが秀宗のときである。秀宗は足利義教戦い鎌倉戦死した小山氏一門として、小山氏同族結城氏との間のきわめて強い同盟関係によってその勢力維持していたが、宇都宮氏関東新興勢力後北条氏との戦いの中で大きく翻弄されてきた。 大永3年1523年)、下野守護宇都宮忠綱鹿沼を切り従えその勝ちに乗じて皆川めざして侵攻してくると、皆川宗成は弟の成明とともに川原田にて宇都宮軍を迎え撃ち同族小山結城氏援軍によってこれを撃退した。後に宇都宮氏従属離反繰り返した元亀3年1月14日皆川俊宗宇都宮氏重臣1人である岡本宗慶謀殺する一方息子の広照に命じて宇都宮城にいた宇都宮氏当主の広綱を幽閉翌日宇都宮城占拠した。俊宗は後北条氏結んで一時専権ふるったものの、後北条氏進出恐れた佐竹小山結城氏が広綱や芳賀高継助けて俊宗を攻めて失脚追い込んだその後元亀4年1573年9月皆川俊宗結城晴朝とともに関宿城簗田氏救援して北条氏政戦った敗北し下総国田井にて討死したとされているが、反対に北条方として宇都宮氏と結ぶ小山氏の粟志川城を攻めて討死たとする説もある。以降皆川氏後北条氏傘下として行動するうになる天正16年1588年)、再び宇都宮国綱皆川領に侵攻し皆川軍は清瀬川右岸布陣して対抗したが、後退余儀なくされた。天正18年1590年)の豊臣秀吉による小田原征伐では北条方として、小田原城籠城するも、脱出し皆川氏所領安堵された上、徳川家康家臣取り込まれた。 豊臣秀吉死後慶長5年1600年)、天下実権をめぐり勃発した関ヶ原の戦いでは東軍方の徳川家康属し西軍佐竹義宣牽制した。徳川家康の六男松平忠輝は家康捨てられて広照に養育され、忠輝が慶長8年1603年)に信濃国川中島藩18万石封じられたとき、広照がその御附家老に任ぜられて信濃国飯山藩4万石封じられた。しかし、慶長14年1609年)、忠輝の行状がよろしからずそれを幕府訴えたところ、かえって広照は咎めを受け、改易となる。子の隆庸も連座したが、翌年皆川氏赦免され、広照は常陸国府中藩1万石で再封され、隆庸も新治1万3,000石で再封された。しかし、府中藩3代藩主となった皆川成郷に子がなく大名として皆川氏は無嗣断絶による改易となったが、成郷の弟の秀隆、成之の系統江戸幕府下で旗本として存続している。

※この「成立から滅亡まで」の解説は、「皆川氏」の解説の一部です。
「成立から滅亡まで」を含む「皆川氏」の記事については、「皆川氏」の概要を参照ください。

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