成立から幕末まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/17 11:50 UTC 版)
千家3代宗旦は、不審菴を三男江岑宗左に譲り、敷地内に新たに茶室を建てて隠居し、四男仙叟宗室と共に移り住んだ。このときの茶室は今日庵(一畳台目)、利休四畳半を再現した又隠、寒雲亭(八畳)であり、これらがすべて宗室に譲られたことにより裏千家が成立する。 4代仙叟宗室は慶安5年(1652年)に加賀前田家の当時すでに隠居であった前田利常に仕官し、百五十石と小松城三の丸の屋敷を与えられた。万治元年(1658年)に前田利常と元伯宗旦が相次いで没すると、裏千家の4代を継承し、寛文11年(1671年)に前田綱紀に茶頭として仕官して百五十石と金沢城下の味噌蔵町の屋敷を与えられた。以後、元禄元年(1688年)までは金沢と京都とを往復しながら精力的に活動し、元禄10年(1697年)に没した。 仙叟宗室の没後すぐに5代常叟宗室が加賀藩に仕官したが、ほどなく辞して伊予松山藩久松家に仕官する。以降、幕末に至るまで久松家に仕官しながら前田家とも交流を続けることになる。その後8代一燈宗室のときに徳島藩蜂須賀家にも出向いている。 8代又玄斎一燈は兄の表千家7代如心斎と共に千家の中興とされる。彼らは茶の湯が大衆化していく中で、新たな稽古の方法として七事式を制定するなどして千家の茶道を広めることに成功した。今日、三千家が茶道の代表格として語られるのは、流祖である千利休の高名だけでなく、この時期に広く各地の町人富裕層に普及したことも大きな要因となっている。 天明8年(1788年)正月晦日、京都で大火があり表裏両千家は完全に焼失している。このとき伝来の道具などは大徳寺に持ち出すことができたが、数々の茶室はすべて焼失してしまった。ほとんどは9代不見斎石翁によって翌年までに再建されている。
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