成立から19世紀まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/31 08:50 UTC 版)
フュルト集落は、オットー朝の、後に皇帝となるが当時はまだ王であったハインリヒ2世がこの集落を新たに創設されたバンベルク聖堂参事会に遺贈する旨を記した1007年11月1日の文書に初めて記録されている。その翌年に与えられた市場開催権は、ハインリヒ3世によって、隣接するニュルンベルクに奪われた。1062年からフュルトに再び市場開催権が与えられたが、当時すでにニュルンベルクは、本市よりもはるかに重要な都市であった。 1440年からフュルトにユダヤ人の最初の定住が証明されている。次の世紀にはユダヤ人墓地やシナゴーグが設けられた。 ニュルンベルクに近いことから長い間農業が盛んな土地で、1600年頃には1000人から2000人が住んでいるだけであった。三十年戦争でこの村は、1632年のアルテ・フェステの戦い(ドイツ語版、英語版)で酷い損害を被り、1634年に数件の家屋を残して焼き払われた。 17世紀には、バンベルク聖堂参事会、アンスバッハ侯領、帝国都市ニュルンベルクが、この街の様々な部分を様々な形態で統治した。(右の1717年の地図参照) フュルトは18世紀に都市らしくなった。現在の旧市街の基本的な地割りにそれは反映されており、一部には遺構が保存されている。1835年にニュルンベルクとフュルトの間をドイツ初の鉄道アドラー号が走行した(ルートヴィヒス鉄道)。1843年にルートヴィヒ=ドナウ=マイン運河(ドイツ語版、英語版)がこの街に達した際、工業化の影響が大きく現れた。1864年/1865年に開通したルートヴィヒス南北鉄道とルートヴィヒス西鉄道がフュルトで最初の広域鉄道であった。 1914年からフュルト=アルツェンホーフ飛行場が開業し、1919年にハルトヘーエのバハマン & ブルメンタール=ヴェルケの工場空港がこれに加わった。フュルトとニュルンベルクを合併して大都市を形成する案が長らく議論されたが、最終的には1922年の住民投票で住民の大多数がこれを拒絶した。第二次世界大戦では、空襲を受けたにもかかわらず、フュルトの歴史的建造物は、その 90 % が保持された。遺された建物の多くが、現在保護文化財に指定されている。戦後、残った兵舎とアッツェンホーフの飛行場はアメリカ軍によって数十年間利用された。 1950年代、経済的転換の時代にフュルトは、大手通信販売企業クヴェレ AG やグルンディヒ AG によってドイツ全体を照らす灯台の役割を果たした。これらの会社は、ニュルンベルクなどで共同者経営の収益性の高い支店を有していたが、法律上はフュルトに留まっていた。1980年代にもフュルトの人口1人あたりの経済力は、バイエルン州のすべての他の都市や郡を上回っていた。
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