成立から消滅まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/14 23:39 UTC 版)
県設置3年後の1569年、ルブリン合同によりリトアニア大公国はポーランド王国と連合国家を形成し、ポーランド・リトアニア共和国となった。ムシチスワフ県は東でロシア国家(ロシア・ツァーリ国からロシア帝国と変遷)と接しており、ムシチスワフは要塞都市としての強化が推し進められた。行政面では、ムシチスワフ県内には郡(ポヴィャト)は設置されなかった。また、県からは各2名が国会(セイム)と裁判所(ru)に派遣された。なお、共和国内の元老院(セナト(ru))においては、ムシチスワフ県知事の席次は低い扱いだった。県章には赤字に騎士(Vytís(ru))を描いた意匠が用いられ、軍旗(ru)にはその外枠に黄色が用いられた。 ムシチスワフ県域は、リューリク朝系の公国の統治期には正教会が奉じられていた。しかしブレスト合同が宣言された後の1601年には、正教会の聖職者は全てこれに従い、17世紀初頭にはカトリックの小教区が設置された。ただし1634年に、ヴワディスワフ4世によって、モフィルフを中心地とする正教会の管区(エパルヒヤ(ru))が設置されてもいる。 17世紀半ば、ムシチスワフ県は11万0152人の人口を有していた。しかし1654年にロシア・ポーランド戦争が勃発すると、県都ムシチスワフはロシア軍に占領され、大きな被害を受けた。避難しなかった1万5千人が殺害された。 1772年、第1次ポーランド分割によってムシチスワフ県全域が帝政ロシア領となり、ムシチスワフ県は消滅した。ただし、ポーランド・リトアニア大公国の消滅まで名目上の県知事は任命され、またムシチスワフ県出身の貴族層(シュラフタ)から議員が選出され続けた。帝政ロシアではムシチスワフ県域にモギリョフ県が設置され、かつての県都ムシチスワフはムスチスラヴリ郡(ru)の行政中心地となった。
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