連邦国の成立から消滅まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/07 18:37 UTC 版)
「イオニア七島連邦国」の記事における「連邦国の成立から消滅まで」の解説
トルコとロシアの共同管理下となったイオニア諸島は、1800年、コンスタンティノポリスで結ばれた条約によってイオニア七島連邦国として自治国化し、オスマン帝国の宗主権のもとでロシアが保護領とすることとなった。この中でケルキラ島が行政の中心を担うこととなったが、限定的ながら貴族主義的憲法、国旗、外交権などの権利が与えられた。ただし、3年ごとに宗主国トルコへの貢納が義務付けられ、ロシア軍が駐屯することとなった。 ケルキラ島の名望家であるカポディストリアス家は連邦国の政治にかかわったが、その一員として1803年に評議会に参加したのが、後にギリシャ初代大統領となるイオアニス・カポディストリアスであった。 1803年に制定された憲法はフランス革命の影響を受けており、自由主義的な内容であったが、ロシア皇帝アレクサンドル1世の抗議を受けて変更を余儀なくされた。また、1807年アリー・パシャはその支配地に近い位置に存在するレフカダ島の占領を目論み、これを攻撃した。そこで共和国は外務大臣を務めていたカポディストリアスへこれを託したが、カポディストリアスはこれを巧みに防御、アリー・パシャを撃退した。 この時、ギリシャ本土から多くのクレフテスらがイオニア諸島へ避難していたが、この中にはギリシャ独立戦争で活躍するテオドロス・コロコトロニス、マルコス・ボツァリスらが含まれていた。 結局、1807年、ロシアとフランスの間でティルジットの和約が結ばれるとイオニア諸島は再びフランス軍に占領され、連邦国はフランスの支配下となった。1815年にイギリスの支配下となるとイオニア諸島合衆国となった。結局、イオニア諸島がギリシャ領になるのは1864年のことであった。
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