連邦同盟崩壊とロサスの連邦派
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「連邦同盟」の記事における「連邦同盟崩壊とロサスの連邦派」の解説
ブエノスアイレスは反アルティガスの立場から、曲りなりとも領土の一部だったバンダ・オリエンタルをポルトガルの攻撃から見捨てたわけだが、このような態度はリトラル三州に強い抵抗をもたらした。残った連邦派諸州、特にリトラル三州の抵抗は続き、エントレ・リオスの連邦派の統領フランシスコ・ラミレス(英語版)将軍はブエノスアイレスらの中央集権軍を破ったあと、1820年から一年間今のエントレ・リオス州とコリエンテス州とミシオネス州を合わせてエントレ・リオス共和国を樹立するなどの動きもあった。 その後1825年に起きたシスプラチナ州(ウルグアイ)を巡ってブラジル帝国との間に起きた500日戦争 の最中にベルナルディーノ・リバダビア(英語版)大統領の発した首都令により、ブエノスアイレス市が中央政府に取り上げられることを恐れたブエノスアレス州の保守派は新しい連邦派を形成することになる。 こうしてブエノスアイレス出身のフアン・マヌエル・デ・ロサスが中央政府からブエノスアイレスの港湾利権を守るために連邦派の統領になると、アルティガスの時代にはブエノスアイレスの独占に抵抗するために存在した連邦派は、今度はブエノスアイレスの利権を守るための連邦派になったのだ。しかし、それでも中央政府を作らずに各州の自治権を尊重していこうとする動きは内陸部のカウディージョの支持を集め、ここにブエノスアイレスと内陸部の意見が一致した。それまで敵対的だったリトラル三州は、今度はロサスの率いるブエノスアイレスと同盟して中央集権同盟との戦いに当たった。 中央集権同盟を倒すと、アルゼンチンは三頭政治となり、しばらくして名実共にロサスとブエノスアイレスがアルゼンチンの覇者となった。ロサスはカウディージョらしい力の政治を敷き、パンパの伝統に反するブエノスアイレス市の欧化主義者や自由主義者を粛清、追放した。ロサスはパラグアイをアルゼンチンの領土だと考えて軍を送ったほか、1836年にアンドレス・デ・サンタ・クルスの建国したペルー・ボリビア連合とも敵対し、ペルー・ボリビア連合はロサス軍とチリ軍の攻撃により崩壊した。ロサスは500日戦争の結果としてイギリスの仲介により、1828年に独立したウルグアイをも自国の領土だと考え、ウルグアイの内乱においてブランコ党に肩入れした。このことは、同じくウルグアイを自国の領土と考えていたブラジルとの間に軋轢を生み、ウルグアイめぐっての大戦争が勃発した。 ロサスはアルゼンチン連邦を作ったものの最後まで中央政府を作らずにブエノスアイレス州知事としてアルゼンチンに君臨したが、この時アルゼンチンに野心を持っていたイギリス、フランスとの戦争の中で次第にその政策は中央集権的になって行き、英仏海軍のラ・プラタ川封鎖によるリトラル三州の貿易港への大打撃はそのままロサスへの不満となって行った。 その後英仏軍はロサスの頑強な抵抗により遂に撤退したが、そうした事情もあって1852年、連邦派としてそれまでロサスの腹心だったエントレ・リオス州のフスト・ホセ・デ・ウルキーサ(英語版)がブラジルに唆されてブラジルとウルグアイのコロラド党との間に同盟を結んでロサスに反旗を翻し、ロサスをカセーロスの戦い(英語版)で打ち破った。
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