感染から治癒まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 05:06 UTC 版)
「アリ・マオ・マーラン」の記事における「感染から治癒まで」の解説
この背景の中、当時23歳のアリ・マオ・マーランは、ソマリアのメルカで病院の料理人として働きながら、時折WHOの天然痘撲滅チーム種痘接種活動に協力していた。しかし、その病院は従業員の種痘接種を義務化していたにも関わらず、マーラン自身は接種を受けていなかった。その理由について2007年のインタビューでマーランは、二股の器具で皮膚に傷をつける必要のある種痘を怖がっていた事を語っている。 1977年8月に、20の遊牧民の家族から天然痘が発症し、8人の子供が8月から10月の間に発症した。1977年10月12日にメルカから約90キロメートル離れた Kurtunawarey で、2人の子供の発症が確認され、地元当局はメルカに隔離施設を設けた。マーランはこの時、感染者を現地から隔離施設に移送する際の車のガイドを務めた。マーランはこの5分から15分の接触の間に感染したとみられている。14日、子供の1人である6歳のハビバ・ヌール・アリ (Habiba Nur Ali) が死亡した。アリは自然環境で天然痘によって死亡した最後の人類となった。 22日マーランは発熱と頭痛を訴え、25日にマラリアと推定し病院を受診した。26日には体に発疹が現れたが、マーランは恐らく種痘を受けたと信じられていたため、水痘と診断された。その後数日で天然痘特有の症状が現れたが、マーランは自身が隔離される事を恐れたため、自身を報告しなかった。30日、同僚の男性看護師が、おそらく200ソマリア・シリング(約35米ドル)の報酬目当てでマーランの症状を報告し、31日に感染が確認された。マーランが感染していたのは致死率が1%未満と低い Variola minor であった。その後合併症を併発したため、マーランが病院を出たのは11月末となった。 マーランは隔離前に多数の人々と接触していたため、感染が広がっている恐れがあった。マーランは発熱がありながらも病院内を自由に歩き、患者や家族と接触していた。WHOはマーランが移動した全ての場所を追跡した結果、161人のコンタクトと41人の種痘未接種のケースを発見した。91人とは対面で接触しており、このうち14人は種痘未接種であった。中には町から120キロメートル離れた地点もあった。全てのケースは6週間の監視下に置かれたが、誰も発症する事はなかった。また同時に、戸別の種痘接種の確認方法が確立され、初めはマーランの住んでいたメルカから、12月にはソマリア全体に広まった。マーランの感染発覚からの2週間で5万4777人が種痘を受けた。ソマリア全体の探索は12月29日に完了した。 1978年4月17日、WHOのナイロビ事務局は、アリ・マオ・マーランが既知で最後の天然痘感染事例であると報告した。自然環境ではなくバイオハザードによって感染し、同年9月11日に死亡したジャネット・パーカーのケースを除き、その後の天然痘の感染報告はなく、1980年5月8日には天然痘の根絶宣言が出されるに至った。
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