性能審査から終戦まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 08:13 UTC 版)
「キ74 (航空機)」の記事における「性能審査から終戦まで」の解説
試作1号機が完成後すぐに性能審査は開始されたが、エンジンの不調、与圧キャビンの運用の難しさ以外は操縦性、運動性とも大型機としては良好とされた。その後、1号機は、1944年7月中頃に立川飛行場で試験飛行中にVDM電気可変ピッチの故障が原因で不時着大破している。最大速度は軍の要求値に届かなかったものの、作戦航続距離は6,000 kmに達したため、陸軍では本機を爆撃機の主力とすることを決定し、試作機を使って乗員の訓練を開始した。また、縦安定性の不良が指摘されたため、形状の異なる複数の水平尾翼が試験された。 続いて1944年8月2日に完成した2号機は、失敗に終わったキ77の2号機による「セ号飛行」に代わる日独連絡飛行「ヤ号飛行」に用いることが計画されており、「ヤ号機」と呼ばれていたが、実施前にドイツが連合国に対して降伏したため、テスト飛行のみに終わった。 陸軍では当初本機を使ってパナマ運河の攻撃を海軍と共同で行なう計画をたてていたが、搭載する爆弾の量から効果が疑問視され、途中からまとまった機数でのサイパン島のB-29基地に対する攻撃に計画が変更され、1945年9月1日の実行が予定された。また、アメリカ本土爆撃とパラシュート降下した乗員によるゲリラ作戦も考えられていた。しかし、いずれも実現することなく乗員の訓練中に終戦を迎えることとなった。 1944年に3機、1945年に11機が製作され、うち終戦時には少なくとも4機が残存していた(一部の機体は終戦時に軍の命令で破壊されたと言われる)。4機ともアメリカ軍に引き渡され、うち1機は1945年11月に追浜の田浦飛行場からキ77の1号機とともに空母に積載されてアメリカへ調査のために送られた。残存機は1機を除き他はスクラップ処分となり、残った1機も飛行試験は行なわれず博物館に展示されることになっていたが、その後行方不明になってしまった。
※この「性能審査から終戦まで」の解説は、「キ74 (航空機)」の解説の一部です。
「性能審査から終戦まで」を含む「キ74 (航空機)」の記事については、「キ74 (航空機)」の概要を参照ください。
- 性能審査から終戦までのページへのリンク