性能実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 09:00 UTC 版)
1932年(昭和7年)、呉海軍工廠に対し岸本鹿子治の主導により開発が進められていた兵器の試作命令が下され、翌年8月に完成する。H金物H金物と称されたこの兵器はのちに甲標的と呼ばれることとなる特殊潜航艇であった。中旬には無人航走速力実験が実施され、自動操縦装置のトラブルがあったものの速力24.8ノットを記録する成功を収める。10月3日には有人性能実験が実施されたが、実験委員に選ばれたのが加藤(少佐)と原田新機関中尉であった。加藤は実験に際し遺書を認めている。この性能実験は翌年12月まで行われ、外洋で22ノット、50分の航行に成功したものの、水素爆発などのトラブルが発生している。加藤はその実用性に否定的な評価をしており、また通信装置が装備されていないことを問題視していた。H金物は改善の必要が認められたが、開発はいったん中断した。しかし、翌年末にはその搭載艦として千歳型水上機母艦の建造が開始される。この艦は開戦間際に改装を施し、特殊潜航艇を各12隻搭載することが予定されていた。艦隊決戦において、母船3隻から出撃した36隻の特殊潜航艇が計72本の魚雷を放つことを期待されていたのである。1938年(昭和13年)には名和武の考案などでH金物の改良計画が決定する。この計画では無線装置、空気清浄器の装着、舵の改良による旋回能力の改善などが図られ、翌年7月に試作命令が発せられた。名称は甲標的と定められている。第二次試験を担当したのは関戸好密大尉(海兵57期、のち中佐)と堀俊雄機関中尉で、加藤は呉海軍工廠附としてこの実験に加わった。甲標的は千代田からの発進試験に成功し、外洋での襲撃試験も行われている。第一次試験よりも能力は向上したが、実験自体が完全なものではなく、関戸は実用に疑問を示していた。しかし1940年(昭和15年)9月に甲標的の採用が決定している。
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