徒弟学校規程の成立と多様な内実
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1893年(明治26年)3月、井上毅が文部大臣(第2次伊藤内閣。1894年(明治27年)8月まで在任)に就任して教育制度改革を進めたが、その眼目の一つが産業教育振興政策であった。 1893年(明治26年)11月、「実業補習学校規程」が成立。小学校令に名前のみ挙げられていた、実業に従事する青少年の教育を統括しようとした。実業補習学校は初等教育(小学校教育)の延長として位置づけられ、小学校の補習などの要素も含まれていた。 1894年(明治27年)6月、実業教育費国庫補助法が公布され、実業教育を行う学校に対する国庫補助が法制化された。その対象には公立の「工業・農業・商業学校」とともに「徒弟学校および実業補習学校」も含められた。これを契機に、各種実業学校は急速に数を増やしていくことになる。 1894年(明治27年)7月、徒弟学校規程が成立し、徒弟学校は独立の規程を持つこととなった。徒弟学校は「職工タルニ必要ナル教科を授クル所」と規定され、「年齢12歳以上で尋常小学校卒業以上」を入学資格の原則とした。純然たる職工養成機関とされ、修身(必修)・算術・幾何・物理・化学・図画等の一般教科のほかに職業に直接関係のある諸教科および実習を課することとした。しかし、実情に合わせた弾力的な運用を大幅に認めており、修業年限の規定も「6か月以上4年以下」と大きな幅があった。 たとえば、尋常小学校未卒者にも学校長の許可によって入学を認めていた。小学校未卒者には読書・習字を必修科目とするなど普通教科も教えることとしたが、小学校既卒者にもこれら普通教科の履修を認めた。このため、普通教育の補習的な機関としての性格も強めることとなった。日曜のみ、夜間、季節開講の学校も認められた。 多様な教育が行われるようになった「徒弟学校」そのものの性格は不明確なものとなり、「工業学校」や「実業補習学校」との境界は曖昧になった。さらに、「女子二刺繍、機織及其ノ他ノ職業ヲ授クル所ノ女子職業学校」も「徒弟学校の種類」と規定(徒弟学校規程第15条)したことから、「徒弟学校」はさらに複雑な内容を有することとなった。 1898年(明治31年)12月現在、徒弟学校は公私立合わせて23校(公立17・私立6)があった。これらの学校は14の職種(染織、機織、養蚕、製糸、造花、刺繍、煙草、陶磁器、木工、金工、漆器、漆工(髹漆)、描金、醸造)について学科を設置している(「染織・機織学科」など複数の職種を組み合わせて1学科とした例が多く、計10学科に上る)。 徒弟学校規程は小学校の一種とされたことから、設立は市町村立あるいは私立に限定された。1895年(明治28年)に規程の一部改正により府県立徒弟学校が認められたが、実際に府県が徒弟学校を設立することは少なく、多くが郡・町村立や組合立の学校であった。
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