廃止表明まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 17:28 UTC 版)
モータリゼーション(車社会)の進展などの理由から、岐阜市は長年市内線に対して敵対的な姿勢を取り続けていた。1967年(昭和42年)には市議会において路面電車廃止決議が可決されており、名鉄との協議で補償問題がまとまらず棚上げになったものの、同決議は現在でも有効となっている。 1961年(昭和36年)2月、名鉄は長良橋 - 養老の滝間のモノレール路線建設構想を発表した。この構想では長良橋 - 岐阜駅は市内線をモノレールに置き換えることになっていたが、その後進展しなかった。1970年(昭和45年)からは当時の上松陽助市長が岐阜市都市交通研究会に指示して、市内線全線を都市モノレールに置き換える「岐阜市モノレール」構想が進められたが、1975年(昭和50年)に凍結されている。 岐阜市内線においては併用軌道区間における道路幅が狭いことを理由として、通常は道路交通法で禁止されている軌道敷内の自動車の通行が許可されていた。このため交通渋滞に巻き込まれて電車が岐阜駅前駅まで到達できず、新岐阜駅前駅で運転が打ち切られることがしばしばあった。また、同様の事情によって、自動車の通行の障害になる停留場の安全地帯を岐阜駅前駅をのぞいて設置できず、乗降客は常に自動車との接触事故の危険性にさらされていた。しかし、交通行政を管轄する岐阜県警は安全地帯設置、軌道敷内自動車通行禁止、いずれに対しても消極的であった。安全地帯を設置した場合、交通量の多い幹線道路である国道157号などを路線バスやトラックなどの大型車両の通行が困難となるためとされる。 1988年(昭和63年)までは、岐阜市内線の一部として徹明町駅から長良橋通りを北上し長良北町駅に至る通称長良線が走っていた(本来、岐阜市内線は岐阜駅前 - 長良北町間が本線で、これに対し徹明町 - 忠節間を忠節支線という)。ぎふ中部未来博開催の際に他の交通の障害になるという理由で同年廃止されたものであるが、この点においても岐阜市ならびに岐阜県警の行政における車優先の姿勢は一貫していた。このほか、長良北町駅からは高富線、千手堂駅からは鏡島線が延びていたが、いずれも1960年代に廃止されている。 岐阜市内線と一体的に運営されていた区間の廃止(1999年〈平成11年〉4月1日美濃町線新関 - 美濃間、2001年〈平成13年〉10月1日谷汲線全線、揖斐線本揖斐 - 黒野間)が続く一方、1997年(平成9年)にはモ780形、2000年(平成12年)には美濃町線系統にモ800形と、相次いで600V線区用の新車を投入。サービスの向上を図った。 2003年(平成15年)1月24日に、名鉄は岐阜県内における600V電化区間からの全面撤退に向け周辺自治体と協議すると表明。岐阜市はようやく存続の可能性を探るため、同年10月14日から11月28日まで「路面電車交通社会実験」を行った。主要停留所に仮設の安全地帯を設置し、かつ軌道敷内の自動車通行を禁止することで利用者の安全性と列車運行の定時性を担保し、このことによって利用者が増加するか否かを見きわめる目的で実施されたものであった。この社会実験は既存の利用者には好評を博したものの、利用者数の減少を止めるには至らず、またドライバーからは安全地帯の設置や軌道敷内の自動車通行禁止によって激化した交通渋滞への不満の声もあがった。 なお、岐阜駅前 - 新岐阜駅前間は、主要地方道岐阜停車場線の整備に伴い、2003年(平成15年)12月1日から廃止日前日の2005年(平成17年)3月31日まで休止された。なお、新岐阜駅は2005年(平成17年)1月29日に名鉄岐阜駅と改称されたが、新岐阜駅前駅の名称は変更されなかった。
※この「廃止表明まで」の解説は、「名鉄岐阜市内線」の解説の一部です。
「廃止表明まで」を含む「名鉄岐阜市内線」の記事については、「名鉄岐阜市内線」の概要を参照ください。
- 廃止表明までのページへのリンク