府立五中での型破りな教育の実践
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「伊藤長七」の記事における「府立五中での型破りな教育の実践」の解説
1919年に長七は、井上友一東京府知事や後藤新平、澤柳政太郎の推挙により、東京府立第五中学校(現・東京都立小石川中等教育学校)の初代校長に抜擢された。 理化学の時代の到来を予見していた長七は、理化学研究所に隣接していた立地を活かして、従来の官僚や軍人を養成するエリート校とは一線を画した、自然科学を主とする「科学者を輩出する学校」の理念を打ち出した。 「原理は後にして先ず事実」との方針から、府立五中には、当時としては異例の高度な設備を持った化学実験室が備えられ、授業の中心に実験が据えられる画期的な授業スタイルを実践した。当時の中学校では3年次から始まる物理・化学の授業を、府立五中では1年次より行い、独自に編纂された「物理化学」の教科書が用いられた。 長七が信州時代に実践した課外活動の数々は、府立五中で大いに開花した。授業では校外学習が重視され、校庭には観測所を設置し、本格的な天体観測や気象観測を行った。都会生活の少年に、農村生活を味わわることを目的とした「転地修養隊」は、信州の志賀村で実施され、当時としては斬新な行事であったため、東京朝日新聞が写真入りで大きく報じている。また、英語の授業においては全国の中学校で初めて、蓄音機を利用したリスニング教材を授業で使用した。標準服は、英国のイートン校などを意識して、詰襟服ではなく、背広とネクタイが選ばれ生徒を紳士として扱うとの方針が示された。 1921年には、第1回の創作展覧会(現・創作展)が開催された。長七は、生徒の1年間の成果を内外に発表する機会を設けたいと以前より考えており、創立より3年目での待望の実現であった。創作展示会では、生徒たちの電信機、汽船模型、絵画、写真、文集、彫刻、稲の変種、トウモロコシの遺伝、測量結果などが展示され、3000人以上の来場があった。
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