府県統廃合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 03:50 UTC 版)
明治9年の府県統廃合の原案作成をしていた内務卿・大久保利通は、内務省高官で但馬出身の桜井勉に、豊岡県と鳥取県の合併について意見を求めた。桜井は、歴史的背景からはもっともな案であるが、但馬と因幡の間は山が険しく往来が不便であるため、鳥取県は島根県、豊岡県は飾磨県と合併させる方が適切であると進言した。物産が豊かな飾磨県を当時基盤の弱かった兵庫県と合併させることを考えていた大久保利通は、これに豊岡県を加えると大きくなりすぎるため難色を示した。このため豊岡県を二分し、丹後および丹波の天田郡を京都府、但馬および丹波の氷上郡、多紀郡を兵庫県に編入することを再提案した。[要出典] この意見が取り入れられ、現在の京都府と兵庫県が誕生し、一時期鳥取県は島根県と合併(鳥取県は(1881年)9月12日再配置)することになったと言われている。[要出典]
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