広田・木戸氏の時代
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天文21年(1552年)頃に作成された『小田原旧記』によれば「当時武州羽丹生御城代 中条出羽守」とあり、この時期に後北条氏の攻撃を受けて落城し、中条出羽守が城代を務めたと考えられる。一方、城を追われた直繁らは他の土地に移り住んだとも、小松神社(後の羽生市小松)付近に移り住み、一時的に後北条方に従属したとも考えられる。 永禄3年(1560年)、越後国の長尾景虎(後の上杉謙信)が常陸国の佐竹義昭の要請により関東出兵を実施すると、かつて上杉氏の配下にいた多くの家臣が景虎の下に参陣した。直繁はこの機会に羽生城の中条出羽守を攻めて城を取り戻し、弟の河田谷忠朝は配下の渋江平六郎や岩崎源三郎と共に景虎の下に参陣すると、同年11月12日(1560年11月29日)に、景虎から羽生城および羽生領を安堵された。この後、武蔵国の武将の多くが後北条方に従属していく中で直繁・忠朝兄弟は一貫して上杉方に属し、抵抗を続けることになった。 永禄4年(1561年)、謙信が成田氏の本拠である忍城の支城・皿尾城を奪取すると、忠朝を配置した。忍城主・成田長泰は前年の謙信の関東出兵の際には謙信の下に参陣したが、すぐに北条氏康に従属しており、長泰の動きを牽制する狙いがあった。この後、皿尾城をめぐり二度に渡り攻城戦が繰り広げられたが、忠朝は岩付城主・太田資正の加勢もあり、これを退けた。 永禄12年(1569年)閏5月、武田信玄の関東出兵により謙信と北条氏康の間で同盟(越相同盟)が結ばれ、上杉方は協定により上野国、武蔵国の羽生領、岩槻領、深谷領などの領有が認められた。永禄13年(1570年)閏5月、直繁が謙信から上野国館林城を拝領したため、皿尾城主の忠朝が新たな城主となった。この後、直繁が死没すると忠朝は息子の木戸重朝、直繁の息子の菅原直則との協力関係を強め、後北条勢に対抗した。 元亀2年(1571年)に氏康が死去し同盟関係が破綻すると、北関東における上杉・後北条間の抗争が再熱し、羽生領や深谷領は主戦場となった。元亀3年(1572年)8月、謙信は後北条の軍勢が羽生・深谷方面をうかがう動きを見せると、忠朝らに救援のため出兵する旨を伝えたが、羽生勢は後北条方の北条氏照、成田氏長らの軍勢の前に敗れた。天正元年(1573年)4月、北条氏政は軍勢を率いて深谷城の上杉憲盛を攻撃し、憲盛を従属させると、同年8月には成田氏長の要請もあり羽生と忍の中間に位置する小松に着陣し、羽生城を攻撃した。 天正2年(1574年)4月、謙信は羽生城の救援のため越後春日山城から上野国館林城に着陣し、北条氏政の軍勢と利根川を挟んで対峙したが、川の増水のため渡河することができず、船による兵糧や物資の支援も後北条方の工作により失敗に終わった。同年10月、謙信は下総国関宿城および羽生城の救援のため再び関東に出兵し、武蔵国の忍領、鉢形領、松山領などを次々に焼き払ったが、関宿城の救援には失敗した。同年閏11月、謙信は羽生城主の忠朝に対して城を破却するように命じ、忠朝は1千余人の兵と共に上野国膳城へ逃れた。
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