広田木戸氏の時代とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > 広田木戸氏の時代の意味・解説 

広田・木戸氏の時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 15:43 UTC 版)

羽生城」の記事における「広田・木戸氏の時代」の解説

天文21年1552年)頃に作成された『小田原旧記によれば当時武州丹生城代 中条出羽守」とあり、この時期後北条氏攻撃受けて落城し、中条出羽守城代務めた考えられる一方、城を追われた直繁らは他の土地移り住んだとも、小松神社(後の羽生市小松付近に移り住み一時的に後北条方に従属したとも考えられる永禄3年1560年)、越後国長尾景虎(後の上謙信)が常陸国佐竹義昭要請により関東出兵実施すると、かつて上杉氏配下にいた多く家臣景虎の下に参陣した。直繁はこの機会羽生城中条出羽守攻めて城を取り戻し、弟の河田谷忠朝は配下渋江平六郎や岩崎源三郎と共に景虎の下に参陣すると、同年11月12日1560年11月29日)に、景虎から羽生城および羽生領を安堵された。この後武蔵国武将多く後北条方に従属していく中で直繁・忠朝兄弟一貫して上杉方に属し抵抗続けることになった永禄4年1561年)、謙信成田氏本拠である忍城支城皿尾城を奪取すると、忠朝を配置した忍城主・成田長泰前年謙信関東出兵の際には謙信の下に参陣したが、すぐに北条氏康従属しており、長泰動き牽制する狙いがあった。この後皿尾城をめぐり二度渡り攻城戦繰り広げられたが、忠朝は岩付城主・太田資正加勢もあり、これを退けた永禄12年1569年)閏5月武田信玄関東出兵により謙信北条氏康の間で同盟越相同盟)が結ばれ上杉方は協定により上野国武蔵国羽生領、岩槻領、深谷領などの領有認められた。永禄13年1570年)閏5月、直繁が謙信から上野国館林城拝領したため、皿尾城主の忠朝が新たな城主となったこの後、直繁が死没すると忠朝は息子木戸重朝、直繁の息子菅原直則との協力関係強め後北条勢に対抗した元亀2年1571年)に氏康が死去し同盟関係破綻すると、北関東における上杉後北条間の抗争再熱し、羽生領や深谷領は主戦場となった元亀3年1572年8月謙信後北条軍勢羽生深谷方面をうかがう動き見せると、忠朝らに救援のため出兵する旨を伝えたが、羽生勢は後北条方の北条氏照成田氏長らの軍勢前に敗れた天正元年1573年4月北条氏政軍勢率いて深谷城の上憲盛を攻撃し、憲盛を従属させると、同年8月には成田氏長要請もあり羽生と忍の中間位置する小松着陣し、羽生城攻撃した天正2年1574年4月謙信羽生城救援のため越後春日山城から上野国館林城着陣し、北条氏政軍勢利根川挟んで対峙したが、川の増水のため渡河することができず、船による兵糧物資支援後北条方の工作により失敗終わった同年10月謙信下総国関宿城および羽生城救援のため再び関東出兵し、武蔵国の忍領、鉢形領、松山領などを次々焼き払ったが、関宿城救援には失敗した同年11月謙信羽生城主の忠朝に対して城を破却するように命じ、忠朝は1千余人の兵と共に上野国膳城逃れた

※この「広田・木戸氏の時代」の解説は、「羽生城」の解説の一部です。
「広田・木戸氏の時代」を含む「羽生城」の記事については、「羽生城」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「広田木戸氏の時代」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「広田木戸氏の時代」の関連用語

広田木戸氏の時代のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



広田木戸氏の時代のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの羽生城 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS