常心塚古墳
名称: | 常心塚古墳 |
ふりがな: | じょうしんづかこふん |
種別: | 史跡 |
種別2: | |
都道府県: | 宮崎県 |
市区町村: | 西都市上三財 |
管理団体: | |
指定年月日: | 1980.03.24(昭和55.03.24) |
指定基準: | 史1 |
特別指定年月日: | |
追加指定年月日: | |
解説文: | S55-05-025常心塚古墳.txt: 常心塚古墳は、西都原の西南、一ツ瀬川の支流三財川の左岸に拡がる常心原台地の上に独立して存在する古墳時代後期の方墳である。横穴式石室をもつ方墳であり、周濠・外堤をほぼ完全な形で残している。外堤の一辺40メートル、高さ1メートル、墳丘の一辺24メートル、高さ3.3メートルで、周濠幅は2メートル前後である。常心塚の名称は、古の僧常心という者がこの塚に穴を穿ち、生きながら自らを埋め、読経しつつ果てたという伝説に由来するものであり、現在、墳頂部南端にその追善のための小さな地蔵堂がつくられている。この地蔵堂の背後に石室の石材の一部が露出しており、石材の形状からこの古墳の埋葬施設が横穴式石室であることが推測できる。この古墳は、早く昭和11年に県の史跡として指定され、保存策がとられてきたこともあって、発掘調査がされておらず、また盗掘の記録もないため、現在のところ石室規模や副葬品の内容については一切不明である。 常心塚古墳は、この古墳の東北方7キロメートルにある特別史跡西都原古墳群の鬼の[[窟]いわや]古墳(円墳・外堤の径45メートル)に比べられる規模をもつ方墳であり、横穴式石室を内部主体とし、方形の墳丘と周濠・外堤をもつ石舞台型の後期古墳として、きわめてその類例の限られたものである。宮崎県下における西都原・新田原・本庄古墳群などの大古墳群が、いずれも前方後円墳と円墳から構成されることと比較すると、これら大古墳群の間に独立して存在するこの古墳は、その立地・墳丘の形態において際立った特色をもっており、南九州における横穴式石室をもつ後期の方墳の好例として貴重なものである。 |
常心塚古墳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/16 22:31 UTC 版)
常心塚古墳 | |
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![]() 墳丘・外堤 |
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所在地 | 宮崎県西都市大字上三財7831(字常心原) |
位置 | 北緯32度4分21.97秒 東経131度19分35.30秒 / 北緯32.0727694度 東経131.3264722度座標: 北緯32度4分21.97秒 東経131度19分35.30秒 / 北緯32.0727694度 東経131.3264722度 |
形状 | 方墳 |
規模 | 一辺23.8-25m |
埋葬施設 | (推定)横穴式石室 |
出土品 | 須恵器 |
築造時期 | 7世紀前半 |
史跡 | 国の史跡「常心塚古墳」 |
地図 |
常心塚古墳(じょうしんづかこふん)は、宮崎県西都市上三財(かみさんざい)にある古墳。形状は方墳。国の史跡に指定されている。
概要
宮崎県中部、三財川北岸の小豆野原台地(常心原台地)の南西端に単独で築造された大型方墳である。江戸時代に常心という僧が古墳上で即身成仏を遂げたと伝えられ、「常心塚」の古墳名はこれに由来し、墳丘上には村人が供養のため建てたという祠堂が設けられている[1]。2002年度(平成14年度)に外縁部の発掘調査が実施されているが、墳丘本体の詳細な調査は実施されていない。
墳形は方形で、墳丘主軸はほぼ正方位をとり、南北25メートル・東西23.8メートルを測る[2]。西都市内では方墳は本古墳と西都原古墳群の171号墳のみになる点で特色を示す。墳丘は2-3段築成とみられる[2]。墳丘周囲には周溝・外堤・外周溝が巡らされ、外堤はほぼ完存し南北40メートル・東西37.5メートルにおよぶ。外周溝の調査では須恵器片が出土している。埋葬施設は未調査のため明らかでないが、横穴式石室と推測され、堂裏には石室の一部の可能性がある礫が露出する[1]。副葬品も詳らかでない[2]。
築造時期は、古墳時代終末期の7世紀前半(TK209型式新段階期-TK217型式)頃と推定される[3][2]。周溝・外堤を伴う石舞台古墳(奈良県明日香村)に似る「石舞台型」の横穴式石室墳の類例は極めて限られるが、北東7キロメートルにある西都原古墳群の鬼の窟古墳(西都原206号墳)でも知られており、大古墳群中の円墳の鬼の窟古墳と単独方墳の本古墳との性格の違いが注目される[4]。また一帯には5世紀末-7世紀前半頃の常心原地下式横穴墓群が分布しており、本古墳の被葬者との関係が示唆される[2]。
古墳域は1980年(昭和55年)に国の史跡に指定されている。
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墳丘上の堂
遺跡歴
- 1884年(明治17年)完成の『日向地誌』に、僧常心が塚に掘った壙の中で読経しつつ命を経ったとする伝承の記載[5]。
- 1936年(昭和11年)、宮崎県指定史跡に指定[4]。
- 1957年(昭和32年)刊行の『宮崎県文化財調査報告書』第2輯において報告[6]。
- 1980年(昭和55年)3月24日、国の史跡に指定[4]。
- 2002年度(平成14年度)、県営農道整備事業に伴う古墳南西部の発掘調査(西都市教育委員会、2003年に報告)[3]。
文化財
国の史跡
- 常心塚古墳 - 1980年(昭和55年)3月24日指定[4]。
脚注
参考文献
- 史跡説明板(西都市教育委員会、2009年設置)
- 地方自治体史
- 「常心塚古墳」『宮崎県史』 資料編 考古2、宮崎県、1993年。
- 「常心塚古墳」『西都市史』 資料編、西都市、2015年。
- 調査報告
- 「常心塚古墳」『宮崎県文化財調査報告書』 第2輯、宮崎県教育委員会、1957年。 - リンクは奈良文化財研究所「全国文化財総覧」。
- 「常心塚古墳」『外原遺跡群 -県営一般農道整備事業(三財原西部地区)に伴なう埋蔵文化財発掘調査報告書-』西都市教育委員会〈西都市埋蔵文化財発掘調査報告書第34集〉、2003年。 - リンクは奈良文化財研究所「全国文化財総覧」。
- 事典類
関連項目
外部リンク
- 常心塚古墳のページへのリンク