川中島の戦い・勘助の死とは? わかりやすく解説

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川中島の戦い・勘助の死

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 05:56 UTC 版)

山本勘助」の記事における「川中島の戦い・勘助の死」の解説

永禄4年1561年)、謙信1万3000の兵を率いて川中島出陣し妻女山入り海津城脅かした信玄も2の兵を率いて甲府発向し、海津城入った両軍数日に及び対峙する軍議の席で武田家重臣たちは決戦主張するが、信玄慎重だった信玄勘助馬場信春謙信打ち破る作戦立案するようを命じる。勘助信春軍勢二手分けて大規模な別働隊夜陰乗じて密に妻女山接近させ、夜明けと共に一斉に攻めさせ、驚いた上杉勢妻女山下りたところを平地布陣し本隊挟撃して殲滅する作戦献策した。啄木鳥が嘴で木を叩き驚いた飛び出てきたところ喰らうことに似ていることから後に「啄木鳥戦法」と名づけられた。信玄はこの策を容れて、高坂昌信馬場信春率いる兵1万2000別働隊編成して妻女山へ向かわせ、自身は兵8000率いて八幡原に陣をしき逃げ出してくる上杉勢待ち受けた。だが、この時上杉方では、暑さ倒れる兵が出てきており、これ以上味方の兵を苦しめるわけにもいかないとの謙信判断で、夜中妻女山下山していた。夜明け高坂勢は妻女山攻めるがもぬけの殻であった偶然にも同じ日に両者川中島出たのである夜明け濃霧晴れた八幡原で、信玄勘助驚くべき光景を目にした。いるはずのない上杉勢1万3000が彼らの眼前進軍していたのである謙信も、武田勢2を目にして驚いた武田勢上杉勢も、敵軍動きに全く気がつかなかった。謙信武田勢突破するべく車懸りの陣で武田勢死に狂い猛攻をかける。信玄はこれに抗すべく鶴翼の陣をしくが、武田勢押しまくられ武田家武将相次いで討ち死にした。その中に勘助がいた。『甲陽軍鑑』は勘助死について典厩武田信繁)殿討ち死に諸角豊後討死旗本足軽大将両人山本勘助入道道鬼討死、初鹿源五郎討死」とのみ信繁信玄の弟)ら戦死者と列挙して簡単に記している。 江戸時代軍記物武田三代軍略によれば勘助は己の献策失敗によって全軍崩壊危機にある責に死を決意して敵中突入奮戦して13騎を倒すが、遂に討ち取られた。『甲信越戦録』では、死を決意した勘助僅かな家来敵中突入して獅子奮迅働きをするが、家来たちは次々討ち死にし、それでも勘助満身創痍になりながらも大太刀振るって戦い続けるが、上杉家猛将柿崎景家の手勢に取り囲まれ四方八方から撃ち込まれ落馬したところを坂木磯八に首を取られている。享年69勘助らの必死防戦により信玄謙信猛攻持ちこたえた乱戦最中謙信はただ一騎手薄になった信玄本陣斬り込みをかけた。馬上謙信床机座った信玄三太刀わたり斬りかかったが、信玄軍配をもって辛うじてこれを凌いだ。ようやく別働隊高坂勢が駆けつけ上杉勢側面衝く。不利を悟った謙信は兵を引き、戦国時代未曾有の激戦である川中島の戦い終わった。この両雄決戦を『甲陽軍鑑』は前半謙信の勝ち、後半信玄の勝ちとしている。 なお、当て推量なことを「山勘」「ヤマカンと言うが、一説には山本勘助の名前が由来とされている(大言海辞海)。

※この「川中島の戦い・勘助の死」の解説は、「山本勘助」の解説の一部です。
「川中島の戦い・勘助の死」を含む「山本勘助」の記事については、「山本勘助」の概要を参照ください。

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