岡田山古墳出土鉄刀(出雲の額田部氏)
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「額田部氏」の記事における「岡田山古墳出土鉄刀(出雲の額田部氏)」の解説
「額田部臣」は733年(天平5年)に作られた『出雲国風土記』にも大原郡の項目で「少領 下従八位上」として現れている。また、 新造(しんざう)の院(ゐん)一所(ひとところ)。屋裏(やうら)の郷(さと)の中(うち)に有り。郡家の正北一十一里(さと)百二十歩(あし)。□層(こし)(三層)の塔(たふ)を建立(た)つ。僧(ほふし)一軀(はしら)有り。前(さき)の少領(せいりゃう)、額田部臣押島(ぬかたべ の おみ おししま)の造る所なり。今の少領(せうりゃう)伊去美(いこみ)が從父兄(いとこ)也(なり)。 とあり、大原郡の中心である屋裏(やうら)の郷(現在の雲南市)には、前少領である額田部臣(が建立したと伝えられる寺院も存在していたという。このことから、額田部臣一族は大原郡を本拠地としていたことが分かる。名代の管理者は地域の豪族であることが多く、出雲国の場合は額田部臣氏だけではなく、「建部(たけるべ)臣」、「日置部(へきべ)臣」、「勝部(すぐりべ)臣」、「倭文部(しどりべ)臣」など、臣の姓を持つものが多いが、これは出雲臣の同族が、それぞれの地域の部民の管理者となり、臣姓を名乗ったからである。 以下の考古学上の発見も、氏族制、部民制の起源や、出雲と大和の関係を考える上でより重要である。 1983年(昭和58年)1月8日、元興寺文化財研究所に預けられてあった、松江市(旧意宇郡)大草町にある岡田山一号墳から出土した遺物の保存修理中、X線撮影によって鉄刀(銀装円頭大刀)の刀身部に12文字分の銀象嵌の銘文があることが発見された。この古墳は国衙の遺跡のある西約1キロメートルの地点に存在し、出雲国庁や意宇郡家に近いところに存在する。1915年(大正4年)に盗掘されており、。上述の鉄刀もこの時発見されたものである。石棺の西側に接し、板状石を組み合わせた追葬用の施設の中に収められてあった、という。同時に出土したものとして、「長子孫」銘の内行花文鏡(ないこうかもんきょう)や3本の大刀、刀子(とうす)、鉄鏃(てつぞく)、金銅丸玉、馬具類、須恵器などがある。また、1970年(昭和45年)の調査で、墳丘上から多数の円筒埴輪片と子持壺(こもちつぼ)が認められた。 出土当時の大刀は完全なものであったが、のちに刀身の半分が失われ、銘文も末尾の12文字が残っているに過ぎず、錆も進んで解読可能な文字が少なくなってきている。その銘文は以下の通りである。 各田卩臣□□□素□大利□ 「各田卩臣」は「額田部臣」(ぬかたべのおみ)を指すものであると見られる。 前述の『出雲国風土記』にあるように、「額田部臣」は大原郡の豪族と見ることができるが、出雲臣一族の中には、姓を共通にし、氏の異なる部臣の氏が稀ではなく、ほかには「建部臣」(たけべのおみ・たけるべのおみ)・「勝部臣」(かちべのおみ・すぐりべのおみ)・「吉備部臣」などが存在することが判明している。そこから、額田部臣は出雲臣氏の一族として、意宇郡を本拠地としたと考えることも可能である。鉄製の大刀には、6世紀後半に額田部の伴造となった額田部臣の人物の一人が大和政権からその名を刻んで賜与されたものと想像され、出雲は東部と西部とで、異なった政治体制下にあったことが想像される。 また当時、この地域は豪族・額田部氏の本拠地であり、額田寺は彼らの氏寺であった。本図には「船墓 額田部宿祢先祖」と注記されているものをはじめ多くの墓が描かれているが、それらは現在も現地で確認することができ、5~7世紀の古墳であることが知られている。本図からは、8世紀当時、額田寺を氏寺として信仰していた額田部氏が、同時に古墳を一族の「先祖」墓として祀っていたことを読み取ることができる。この本図からも、古墳から氏寺へという氏族の信仰対象の変化、また一族結集の場の多様性を窺うことができる。 出雲国には、額田部首氏や、無姓の額田部氏も分布していた、という。
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