岡田審判と暴力事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/11 09:53 UTC 版)
1956年から1992年までの通算37年(総務の時代を含めると通算46年)にも及ぶ審判人生では数度暴力事件に巻き込まれている。 最初に巻き込まれた試合は1957年8月21日に中日球場で行われた中日ドラゴンズ対国鉄スワローズ戦である。この試合では国鉄の金田正一が史上4人目となる完全試合を達成したが、9回裏の判定トラブルが原因で観客が乱入・暴動という事態に至った。この試合で岡田審判は右翼外野線審を務めていたが、観客が乱入した時に逃げ遅れたために標的となった。 次に巻き込まれた試合が1969年10月30日に後楽園球場で行われた読売ジャイアンツ対阪急ブレーブスの日本シリーズ第4戦であった(上記)。 さらに巻き込まれた試合に1982年8月31日に行われた横浜スタジアムでの横浜大洋ホエールズ対阪神タイガース戦がある。この試合で三塁塁審を務めていた鷲谷亘審判が判定に不服を訴えた島野育夫コーチに殴られ退場を宣告した。そのため球審を務めていた岡田審判は島野コーチを止めようとしたが逆に同コーチに襲われ、柴田猛コーチからも殴る蹴るの暴行を受け、岡田球審は全治2週間の怪我を負った。 この時、審判側はプロ野球史上、日本はもとより世界でも初めて「暴力行為による没収試合」を検討していたが、当時の阪神監督安藤統男が謝罪して没収試合は回避された。審判側が一時引き揚げる時、岡田は「暴力団のようなチームと試合できるか!!」と激怒しプロテクター(当時はインサイドプロテクターではなく、手に持っていたアウトサイドプロテクター)を叩きつけたが、後に島野らへの処分発表の際にセントラルリーグ会長の鈴木龍二から「審判の商売道具であるプロテクターを投げることは何事だ!」と叱責されている。 「横浜スタジアム審判集団暴行事件」を参照
※この「岡田審判と暴力事件」の解説は、「岡田功」の解説の一部です。
「岡田審判と暴力事件」を含む「岡田功」の記事については、「岡田功」の概要を参照ください。
- 岡田審判と暴力事件のページへのリンク