屋敷での活動
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コハノフスキの生涯において、1559年から1563年にかけては不明瞭なところが多い。所蔵されている法的文書に基づいてつきとめることができるのは、1559年7月11日に詩人の両親の遺産が兄弟との間で分割されたということである。ヤン・コハノフスキが受け継いだのはチャルノラス(Czarnolas)の半分、ルダ(Ruda)、製粉所、いわゆるグロツカ川沿いの放魚池及びその他の付属物であった。チャルノラスのもう半分はおじにあたるフィリップが受け取った。一方、兄弟たちはポーランド通貨で400フローレンもの補償金を詩人に支払わせた。1560年3月25日、フィリップとヤンの間に協定が交わされ、相続した所有地を合計400フローレンで眷属に賃貸しすることとなった。受け取った金銭で兄弟への負債を支弁した。1562年12月12日には、おじと義理の息子の間に諍いが起こり、ピョトルクフにある議会の王立裁判所に持ち込まれている。 国では屋敷、とりわけタルノフスキ、テンチンスキ、ヤン・フィルレイ(貴族でカルヴァン派の活動家)、クラクフ司教フィリプ・パドニェフスキらの館に滞在していた。大臣ピョトル・ミシコフスキの支援のおかげでアウグスト・ジグムント2世の屋敷に行き着いたのは1564年頃で、そこでは王室秘書と称せられていた。ミシュコフスキのおかげでまた教会の受給聖職、すなわちキチン教区(ポズナン大聖堂の修道院長の機能と結びついている)とズヴォレンの司祭館を手に入れた。 議会が荒れている間王に仕え、政略に従事した痕跡が作品にうかがえる。1567年には王のラドシュコヴィツ(ミンスク付近)遠征(戦争中のロシアに対して武装示威行動)に随行した。1568年のモスクワ遠征の準備にかなりの奉仕をした。 1572年までジグムント2世の屋敷に仕えていた。1569年7月12日、折しもポーランドとリトアニアが連合したルブリン合同の時であったが、プロイセン公アルブレヒト・フリードリヒがジグムント2世に臣従の誓約を行ったというポーランド共和国にとって重要な出来事を、コハノフスキは「小旗、あるいはプロシアの誓い(Proporzec albo Hołd Pruski)」で綴っている。 ジグムント2世の死後、(フランス王)アンリ3世の支持者となり(1573年に選挙で記名している)、1574年のヴァヴェル大聖堂での戴冠式にも参列した。王の逃亡後、屋敷での生活をやめてしまった。 後にステファン・バートリを支持はしたものの、もはや王の屋敷に再び戻ることはなかった。選挙議会に参加し、王室書記官ヤン・ザモイスキの恩恵を受けた。この頃王によって指導された戦争はいくつかの勝利の頌歌、また、クシシュトフ・ラジヴィウ・ピョルン公の戦績に寄せられた長詩「モスクワ旅行誌(Jezda do Moskwy)」にも関係している。 また、タルノフスキ、テンチンスキ、フィルレイ、ラジヴィウといった大地主の屋敷との関係も注目に値する。
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