尾頭橋三丁目とは? わかりやすく解説

尾頭橋三丁目

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 09:07 UTC 版)

尾頭橋」の記事における「尾頭橋三丁目」の解説

[全画面表示] 略地図1 中川警察署 八熊交番2 藤田医科大学ばんたね病院3 尾頭橋公園4 中川まちなか博物館佐屋街道尾頭橋中川警察署八熊交番 1998年平成10年)に新築された建物は、同年3月26日使用開始されている。鉄筋コンクリート造2階建て。延床面積55平方メートル藤田医科大学ばんたね病院 1930年昭和5年9月開院した総合病院尾頭橋公園 開園当初は「廓公園」の名称であったが、のちに改称している。廓公園名古屋市戦災復興土地区画整理事業中川第2工区事業により整備され公園である。公園開園1952年昭和27年)のことだが、もともとは八幡園内公園であったものを整備し直したものという。面積は0.18ヘクタール尾頭橋南部どんぐり広場 中川まちなか博物館佐屋街道尾頭橋当地を通る佐屋街道尾頭橋歴史について説明した案内板市民グループの「佐屋街道に花と歴史をのこす会」が区に寄付したもので、中川区区内4ヶ所に設置した中川まちなか博物館」と題する案内板一つとして位置づけられている。 八幡戦前八幡園は花街であり、戦後には遊廓となった戦前名古屋市には17連の花柳界があり、1941年昭和16年)の八幡園には料亭77軒、芸妓置屋30軒、芸妓153人があった。太平洋戦争中花柳界衰退したため、1943年昭和18年9月頃から遊廓への転換進んだ1945年昭和20年)の名古屋大空襲ではいったん町が焼失している。戦中1943年から土地区画整理事業開始されており、戦後には公園中心とする整然とした街区生まれた1955年昭和30年)に刊行された『全国女性ガイド』によると、68軒の遊廓があり、324人の遊女がいた。戦後名古屋市赤線区域指定されたのは、八幡園、中村区名楽園北区城東園港区港陽園の4か所である。1958年昭和33年)に売春防止法施行されると、遊廓から旅館転業した店なども多かった八幡本通から少し北側歩いた場所にある。 西古渡第二公園 1983年昭和58年4月1日開園公園震災復興事業により整備された。 中川警察署八熊交番 藤田医科大学ばんたね病院 尾頭橋公園

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「尾頭橋三丁目」を含む「尾頭橋」の記事については、「尾頭橋」の概要を参照ください。

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