尊円法親王と世尊寺家
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行房・行尹の兄弟は尊円法親王に書法の指導を行った。尊円法親王は『入木抄』という書論の著者として、また、御家流の創始者として日本の書道史上に欠くことのできない存在であり、その書流は明治時代になるまで和様書道の中心的書風として知られる。 御家流(尊円流)の流行 室町時代後期に一条兼良が編纂したとされる『尺素往来』によると、「近日は、尊円親王の書が流行の兆しを見せはじめ、全国津々浦々で行われた。(趣意)」とある。また、『六朝書道論』付録の「六名家書談」で日下部鳴鶴は、「徳川末期の書風は尊円親王から出た御家流といふ書風が行はれて居(を)って、当時に在っては、御家流にあらざれば書にして書にあらずといふやうな偏見が一般の頭脳に留まって居ったことは事実である。(中略)当時の公文書は御家流に限られてあったから一般民間の書風も、全然御家流の天下であったのである。」と記しているように、御家流(尊円流)は室町時代後期から明治時代の初期に至るまで全国に広まっていたことがわかる。 正平7年/文和元年(1352年)11月14日、尊円法親王が55歳のとき、行房・行尹兄弟から受けた秘説を思い出すままに記した『入木口伝抄』という本が遺っており、その奥書に、尊円法親王と世尊寺家との関係を語っている。以下、その内容を要約する。 『入木口伝抄』の奥書 応長元年(1311年)12月、尊円法親王は14歳で入木道を志し、経尹を師匠として入門を要請した。経尹は尊円の腕前を知るため、覚尹僧都(経尹の第5子、延暦寺の僧)を使いとして、尊円の筆跡を要求してきた。尊円は一紙を書き送ったところ、見所があるから稽古を積むようにとの返答が来たが、経尹はすでに65歳であったので、老体を理由に師範を拒否し、代わりに子の行尹を「器量の者」として推薦してきた。そして、尊円は行尹について16歳までの2年間、精進を重ね、行尹も熱心に教えた。尊円はぐんぐんと腕をあげていったが、17歳になると尊円は修行が忙しくなり、手習いの時間がなくなった。文保のころに、行尹は籠絡されて鎌倉に没落したので、尊円は師匠を失ってしまったが、行尹が帰洛するまでの間、行尹の兄・行房が代わりに多くの口伝を授けてくれた。 『入木口伝抄』には、秘伝を受けた年月日が記録されており、それによると、元亨2年(1322年)3月25日(尊円25歳)からの記録となる。この時、行尹はすでに鎌倉にいたので、この聞書の執筆は行房を師匠としてからのことである。例えば、「嘉暦三年四月八日行房朝臣来。額事習之。問云、(中略)。答云、(後略)」などとあり、その質疑が問答形式によって示されている。帰洛してからの行尹の講説もある。
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