専業の陰間と陰間茶屋とは? わかりやすく解説

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専業の陰間と陰間茶屋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/15 04:26 UTC 版)

陰間」の記事における「専業の陰間と陰間茶屋」の解説

詳細は「陰間茶屋」を参照 原点江戸時代さかのぼり芳町現在の日本橋人形町)を中心に湯島天神麹町平河天神界隈など数ヶ所で営業していた。10代少年役者弟子という名目陰間宿に抱えられていた。 時代が下ると、舞台立たない専業陰間抱え陰間茶屋出現し役者売色もする芝居小屋とは一線を画すようになっていった。また陰間茶屋置かれ少年には、女装しないものが多く占めていた。 当時風俗では色道極み男色女色二道を知ることだといわれることもあったため、同性愛者中心に、粋と珍奇求める客で陰間茶屋大い栄えた。しかしそれも田沼時代の頃から次第廃れはじめ、明治維新経て日本国民皆兵国家になった頃と時を同じくして、陰間茶屋はほぼ消滅した。 『岡場遊郭考』には、「蔭子、又蔭間共、是は舞台子次にて竝子と云、当時芳町湯島などの子供をさしていふ。按に竝子は多く若衆なりしが、是舞台子間違ふ故ならん。予幼年の頃迄は上方丁稚などの若衆に鬢をいたして結ひ、前髪をゆわへ、髷をゆふときは前髪の上より元に持たせてゆふ事なり、今芝居にて久松などの髪の風なり、衣類の裏には萌黄木綿を用ゐ、是を見るもの陰間のよふじやなどと申せしが、是等今は絶えたり、如此若衆追々衰えしによつて、当時如く髪の風、女子如くになりしやいかが、又美童を女の粧に作り寵せらしは、人皇七十七代の帝後白河院常に随侍せしむ、其後室町家禅家貴む武家の輩、五山に至る時、喝食を女の姿に作り給仕せしむと云々是等によりて女子の姿になりしにや」とある。 『風俗七遊談』の陰間の譚には、「此道は出家専ら修行すべき道にして、俗人はしゐて此道に入て其意味を極めずといふとも必ず過ならず、先舞台子堺町、葺屋町、木挽丁原文ノママ〕三座〉を上品とす、葭町之に次ぐ、神明麹町天神湯島は其次也、赤坂市ヶ谷は是が下たり、浅草馬道本所回向院前を下品とす、京都大阪の産は色もあり、芸もよし、江戸の産は美なるありといへ共、其気甚荒し」とある。 『男色細見三の朝』には、「若衆多く京大阪より下る故、近年地の仕立子又は外より抱へたるも初めて出す時は下り披露す」とある。 1932年昭和7年11月18日永井荷風は、新富町の「男色をひさぐ者」の家を訪れた主人尾上朝之助という役者で、ほかに3-4人の陰間がいた。荷風1934年10月26日にも、「女形役者淫行年々甚しくなれり」として、中村福助と「慶應義塾卒業生河合某」の噂に触れ、「下廻女形役者中には客に招がれて待合に行くものあり。枕金拾円の由なり」と『断腸亭日乗』に記した

※この「専業の陰間と陰間茶屋」の解説は、「陰間」の解説の一部です。
「専業の陰間と陰間茶屋」を含む「陰間」の記事については、「陰間」の概要を参照ください。

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