対枢軸国の戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 22:46 UTC 版)
「第二次世界大戦下のルーマニア」の記事における「対枢軸国の戦争」の解説
1944年8月23日の夜、ルーマニアがドイツに宣戦布告すると、ハンガリーとの国境ではすぐに軍同士の衝突が起こった。8月24日には、ドイツ軍がブカレストを占領し、ミハイ1世のクーデターを制圧しようと試みたが、アメリカ空軍がブカレスト防衛の支援にまわり、成功しなかった。ルーマニア国内に残されたドイツ国防軍は相当な痛手を被った。第6軍の残党はプルト川の西側に後退したが、それを上回る速さで進軍した赤軍によって阻まれ、撃退された。また、ルーマニア軍は、プロイェシュティ油田のドイツ駐屯軍を攻撃し、ドイツはハンガリーへの退却を余儀なくされた。この状況下において、ルーマニア軍は5万人のドイツ人を捕らえ、彼らは後にソ連に降伏することとなる。 9月初旬、ソ連とルーマニアの軍はトランシルヴァニアに入り、ムレシュ川まで進軍する過程で、ブラショヴやシビウを占領した。軍の最大の目標は、歴史的にトランシルヴァニアの中心都市となっていたクルジュ=ナポカを獲得することにあった。しかし、この地方にはハンガリー第2軍が存在し、ドイツの第8軍とともに抵抗したため、9月5日にトゥルダの戦いが始まった。この戦闘は10月8日まで続き、両軍に多数の死傷者を出した。 ルーマニアの枢軸離反を受け、ハンガリー国内では南トランシルヴァニア奪回論が出て、9月5日にハンガリー第2軍がルーマニア領内へ進撃を開始し、9月6日に宣戦を布告。翌9月7日にはルーマニアもハンガリーへ宣戦布告した。ハンガリー軍はルーマニア西部のアラド県に入り、ハンガリー単独としては最後となる攻撃を行った。序盤こそハンガリーが優勢だったものの、ルーマニアの士官訓練生による臨時の大隊が数多く組まれ、パウリシュの戦いでハンガリー軍の前進を食い止めることに成功した。その後すぐにルーマニアとソ連合同の反撃に遭ったハンガリーは、9月21日にアラドを明け渡した。この間の9月12日、ルーマニア政府代表団はソ連の首都モスクワで休戦協定に署名した。 ルーマニア軍は、1944年8月に連合国側についてから大戦終結までの間、トランシルヴァニア、ハンガリー、ユーゴスラビア、オーストリア、ボヘミア・モラヴィア保護領において、赤軍とともにドイツ国防軍と戦った。1945年5月には、ルーマニア第1軍と第4軍がプラハの戦いに参戦し、ナチス・ドイツとの戦いで相当な犠牲者を出した。1944年から45年にかけての枢軸国との戦いでは、参加した538,000人のルーマニア兵のうち、167,000人が死亡、負傷、行方不明となった。 対枢軸国戦におけるルーマニアの軍勢と軍事行動国・地域開始日終了日投入人数被害者*山の横断川の横断村の解放町の解放相手側の被害ルーマニア 1944年8月23日 1945年5月12日 >275,000 (538,000) 58,330 3,831 31 死傷: 167,000軍事施設 ハンガリー 1944年10年8日 1945年1月15日 210,000 42,700 3 4 1,237 14 捕虜: 21,045死者: 9,700軍事施設 ボヘミア・モラヴィア保護領 1944年12月18日 1945年5月12日 248,430 66,495 10 4 1,722 31 死傷・行方不明: 22,803 ドナウ=アルプス帝国大管区群 1945年4月10日 1945年5月12日 2,000 100 7 1 死傷・捕虜: 4,000軍事施設 全体 1944年8月23日 1945年5月12日 538,536 169,822 20 12 3,821 53 捕虜: 117,798死者: 18,731 * 軍事行動中の死者・負傷者・行方不明者の合計
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