対東ローマ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/23 23:20 UTC 版)
「ミハイル3世シシュマン」の記事における「対東ローマ戦争」の解説
ゲオルギ2世の急死はブルガリアに混乱と動揺をもたらし、東ローマ皇帝アンドロニコス3世はブルガリアの窮地を好機ととらえた。東ローマ軍はトラキア北部に侵入し、ヤンボル、ソゾポル(ソゾポリス)などの重要な都市を占領した。東ローマの侵攻と同時に、かつてのブルガリア皇帝の兄弟スミレツの兄弟ヴォイシルはブルガリアの領主でありながら東ローマに与し、クラン(英語版)[要リンク修正]を本拠地としてスリヴェンからKopsisに至る範囲のバルカン山脈とスレドナ・ゴラ山脈の間の峡谷部を支配した。アンドロニコス3世がフィリッポポリス(現在のプロヴディフ)に包囲を敷いている時、新たに即位したミハイル3世はアンドロニコスを迎撃するため南に進軍した。 Ivan the Russianが率いる守備隊の抗戦により、東ローマ軍のフィリッポポリス包囲は失敗に終わる。東ローマ軍がフィリッポポリスに引き付けられている間、ミハイル3世は北東トラキアに進軍して奪われた都市を解放し、東ローマ軍を撤退に追いやった。 ミハイル3世はアンドロニコス3世の軍を撤退させることができたものの、フィリッポポリスはブルガリア側の守備の隙をついた東ローマ軍によって占領される。フィリッポポリスの喪失にもかかわらずミハイル3世はヴォイシルを破り、1324年に前年まで東ローマの下に置かれていた北・北東トラキアの支配を回復した。同年、ミハイル3世はマリツァ川下流域の東ローマ領に侵入する。十分な兵力を集められなかったアンドロニコス3世はブルガリア軍の迎撃に出ることができず、アンドロニコス3世は決闘で雌雄を決することをミハイル3世に提案した。後の東ローマ皇帝ヨハネス6世カンタクゼノスは、この時のミハイル3世の返答を以下のように記している。 「 やっとこを使わずに自らの手で熱い鉄をつかむ鍛冶屋は愚か者である。強大な大軍の代わりに自分自身の身体を危険に晒すような真似をすれば、鍛冶屋と同じ愚か者としてブルガリア国民の笑いものになるだろう。 」 アンドロニコス3世はミハイル3世の返答、自身の策略が失敗に終わったことに憤怒したと言われている。しかし、アンドロニコス3世が共治帝でもある祖父アンドロニコス2世と対立していることを知ったミハイル3世は、アンドロニコス3世に祖父との戦争の際には援助を提供することを仄めかし、アンドロニコス3世と交渉の約束を交わしてブルガリアに帰国した。
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