宮城県神社庁の説
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/19 04:48 UTC 版)
「刈田嶺神社 (蔵王町遠刈田温泉)」の記事における「宮城県神社庁の説」の解説
以下は、宮城県神社庁による当社の歴史である。 「開山せしは何時頃なりしか不明なれど、人皇二代綏靖天皇を奉祀せしこと」が地方伝説等[要出典]には残されている。 社伝(『安永風土記御用書出』・『刈田郡誌』も同)では、役小角が白鳳8年(679年)に大和国(現奈良県)に蔵王権現、即ち、天之水分、国之水分、二柱の御神霊を鎮座した吉野山から、「其後文武天皇の御宇」(在位697~707年)、不忘山に蔵王権現を奉還して、山名も「蔵王山」と改めるに至った。この時代は仏教の最も盛んなる時にして、畏くも天皇御自身三宝の奴と称し、行基出でて神仏習合説を唱い、空海(774~835年)、最澄(767~822年)の二僧出ずるに及び、本地垂跡説を説きし頃(平安時代はじめ頃)なりしかば、いつしか神社名も忘れ、「蔵王大権現」と称するに至った。 平安時代後期の前九年の役の頃になると、安倍氏が当社を己が氏神として神殿の改築したという。戦国時代に至り、当地方は出羽領に属し、最上出羽守厚く尊崇し五十町歩を寄進して、当社の神田とした(後段『刈田郡誌』1928)。上杉氏は家臣甘糟氏(甘糟備後守清長 1598-1600年白石城主)に守護させた。 その後伊達氏代りて陸奥に覇を握るや、己が守護神として家臣片倉小十郎(白石城主1602年12月~)に守護させ、伊勢神宮に倣って21年毎の改築(遷宮)を始めた。伊達政宗が仙台藩をたてると、仙台城の鬼門(北東)除けを金華山(黄金山神社)、病門(南西)除けを当社と見なして重要視するようになる。 明治維新で神仏分離が行われると、明治5年(1872年)4月に「水分神社」と改称し、さらに明治8年(1875年)に「刈田嶺神社」を称するようになった。旧社格は、遠刈田の刈田嶺神社を郷社とした。
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