宝石(ほうせき)
1946年(昭21)4月創刊。岩谷書店、1956年(昭31)より宝石社刊行。岩谷書店の社長は明治時代、「驚くなかれ税金たった二百万円」という大看板を掲げた煙草業界の大立て者、岩谷天狗の孫、岩谷満。父はベルギー代理大使だった岩谷二郎。
岩谷満は探偵小説と詩が好きだったので、岩佐東一郎宅で知り合った城昌幸と武田武彦に話を持ちかけ、川口屋鉄砲店のなかに岩谷書店を設立した。城昌幸が本誌主幹。編集長はその後、武田武彦、津川溶々、永瀬三吾、谷井正澄、大坪直行が継承した。
戦前の「新青年」と並ぶ戦後の代表的探偵小説誌で探偵作家の拠り所となり、探偵小説界に指導的役割を果たした江戸川乱歩の発言の場でもあった。「新青年」が主として木々高太郎が提唱する文学派の牙城だったのに対し、「宝石」は本格支持の砦でもあった。横溝正史の「本陣殺人事件」などの本格長編、海外作品の翻訳(ジョージトマスフォルスターががはじめた翻訳権仲介業のおかげで著作権問題が解決した1950年(昭25)頃より掲載)、江戸川乱歩の「幻影城通信」などによる評論と紹介、自伝的回想録「探偵小説三十年」などが掲載された。
また、新人募集を毎年実施し、作家の育成にも努めたが、1949年(昭24)頃になると、会社の経営が行き詰まり、賞金不払い問題が持ち上がった。
1957年(昭32)8月、江戸川乱歩が編集と経営に参画し、翻訳、イラストを除く一切の編集プランを立案し、文壇作家に作品を依頼するようになった。このとき翻訳を任されたのが、田中潤司である。また、財政難に喘ぐ宝石社のため、江戸川乱歩は原稿料や編集費を立て替えたり、個人名義の定期預金の信用で手形割引をおこなった。もっとも、当初は探偵作家が回り持ちで毎月編集にあたる計画だったという。同時に、「週刊朝日」と共催して短編を募集したり、新人発掘に励んだ。新人募集も1960年(昭35)から「宝石賞」と命名された。
しかし、探偵小説が推理小説としてジャーナリズムに歓迎されるにつれ、次第に「宝石」から離れていくようになった。江戸川乱歩が病に倒れてから経営が悪化し、1964年(昭39)5月、「250号記念号」で廃刊となった。通計251冊(増刊含む)。ほかに「宝石」130冊。「宝石」の名称は光文社に譲渡した。
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