夫婦関係と女性
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「オーガスタス・フィッツロイ (第3代グラフトン公)」の記事における「夫婦関係と女性」の解説
1756年1月29日、20歳のときに初代レイヴェンスワース男爵ヘンリー・リデルの娘アン(英語版)(1737年 – 1804年2月24日)と結婚、まもなく夫妻には1女2男の子ができた。 ジョージアナ(1799年1月18日没) - 1778年6月4日、政治家ジョン・スミス(英語版)と結婚、子供あり ジョージ・ヘンリー(英語版)(1760年 – 1844年) - 第4代グラフトン公爵 チャールズ(英語版)(1764年7月 – 1829年12月) - イギリス陸軍軍人。1795年6月20日にフランシス・マンディー(Frances Mundy、1773年 – 1797年8月9日、エドワード・ミラー・マンディーの娘)と結婚、子供あり。1799年3月10日、フランシス・アン・ステュアート(Frances Anne Stewart、1777年6月24日 – 1810年2月9日、初代ロンドンデリー侯爵ロバート・ステュアートの娘)と再婚、子供あり。ビーグル号船長ロバート・フィッツロイの父 アンは2歳年下で、世間は才色兼備の女性とみていたが、グラフトン公爵は妻子と過ごすよりも狩猟や賭事を大切にし、競馬やカードゲームに大金を費やした。次第に夫婦関係は冷えていき、グラフトン公爵は1763年頃からナンシー・パーソンズ(英語版)との愛人関係が始まった。一方、アン夫人も不倫をしており、1764年1月に娘のジョージアナを連れて家を出た。9歳になる息子のジョージ(英語版)(のちの第4代グラフトン公爵)は父のもとに留まった。 1767年になると、アン夫人は、まだ籍はグラフトン公爵の妻のままだったが、第2代アッパー・オソリー伯爵ジョン・フィッツパトリックの子を妊娠、同じ頃、グラフトン公爵は愛人ナンシー・パーソンズを伴いニューマーケットへ出入りする姿がたびたび目撃されるようになり、1767年頃には公然と連れ回すようになった。1768年4月にはグラフトン公爵がナンシー・パーソンズ(英語版)とともにオペラ鑑賞に向かう姿を目撃され、作家ジュニアス(英語版)などから攻撃された。 アン夫人は、1768年8月にアッパー・オソリー伯爵の子を出産した。1769年3月23日に議会によって夫妻の離婚の承認が得られると、アン夫人はその3日後にアッパー・オソリー伯爵と入籍した。 グラフトン公爵のほうはその頃にはナンシー・パーソンズとの関係を終え、1769年6月4日に第7代準男爵サー・リチャード・ロッテスレー(英語版)の娘エリザベス(1745年11月1日 – 1822年5月25日)と再婚した。エリザベスとの間には以下の9子をもうけた。 ヘンリー(1770年 – 1828年) フレデリック(1774年9月16日 – ?) - 早世 シャーロット(1857年6月23日没) エリザベス(1839年3月30日没) - 1811年7月4日、ウィリアム・フィッツロイ(William FitzRoy、1773年12月12日 – 1839年3月30日、初代サウサンプトン男爵チャールズ・フィッツロイ(英語版)の息子)と結婚 オーガスタ(1839年6月29日没) - 1811年11月19日、ジョージ・F・タヴェル(George F. Tavel、1829年4月27日没)と結婚 フランセス(1780年6月1日 – 1866年1月7日) - 1800年11月25日、初代チャーチル男爵フランシス・スペンサーと結婚。 イザベラ(1866年12月10日没) - 1812年8月11日、バリントン・ポープ・ブラッチフォード(Barrington Pope Blachford)と結婚 ウィリアム(英語版)(1782年 – 1857年) - 王立海軍軍人 ジョン・エドワード(英語版)(1785年9月24日 – 1856年12月28日) - 政治家、生涯未婚
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