大胡城家臣木俣氏が、なぜ徳川旗本や、彦根藩・井伊氏家臣に残れなかったのか
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「小諸藩牧野氏の家臣団」の記事における「大胡城家臣木俣氏が、なぜ徳川旗本や、彦根藩・井伊氏家臣に残れなかったのか」の解説
木俣守時(家康旗本)の惣領であった守勝は、家内騒動で出奔して、家康に帰参が求められ、家康の旗本として、江戸城にも入城。自分に子供がなかったので、養子(守安)を迎えたが、木俣守時・守勝の血縁・分脈からは、あえて養子を選ばなかった。これら一連の事実は、彦根・木俣氏関係史料(東京大学史料編纂所蔵)、彦根藩筆頭家老木俣清左衛家資料(彦根市立図書館蔵)などから、疑う余地のない事実であると考えられる。ここでは、家内騒動で争った木俣守勝の反対勢力・抵抗勢力の末路は、どのようになものであったかを、あらためて提起したいが、この事情を書いた詳細で、かつ確実な文献が存在しない。 しかし、木俣守勝以前の分脈や、木俣守時・守勝等の血縁を持った一門・連枝は、井伊氏家臣団や、徳川旗本から駆逐・駆除されていたことは、「小諸家臣木俣氏が、牛久保以来の家であることを否定できる根拠と理由」の中で、すでに述べている。 実在性が確認できる大胡城家臣・木俣惣右衛門は、木俣守勝家の分かれという。それならば、なぜ木俣守勝が近江国彦根藩祖(当時の領国は、関東地方・上野国の一部)となった井伊氏の御付人・筆頭家老に就任した前後は、井伊氏は、家臣団を大増員していた時期で、あったはずであるにも、かかわらず、木俣惣右衛門は、井伊氏の家臣団に加わることが、できなかったのか。あるいは、出身母体の徳川旗本として、残れなかったかが問題となる。徳川や、井伊でもない牧野を主君に持ったのは、疑問となる。大胡城主牧野氏仕官の理由については、これを伝える史料・文献が存在しないため、厳密には不詳であるが、一連の流れから推定・想像することは、難しくない。なお木俣守勝は、井伊氏の御付人・筆頭家老に就任にあたって、徳川旗本資格を喪失したわけではなく、兼帯身分となっていた。 次のような論評や、想像については、これをあからさまに否定できる文献は、下記掲載の出典・参考文献には、存在しない。また木俣守勝の近親者が、出奔・家出したうえで、上野国大胡城主牧野氏に仕官したとする文献も、同様の範囲に限定すれば、やはり存在しない。 木俣守勝は、家内騒動で、自分の反対勢力となった血縁には、家督を譲りたくないと考えた(自分の血縁がありながら、これに家督を譲らなかったことは、想像ではなく、疑いのない事実であることは、すでに述べている)。 北条遺臣の遺児から、養嗣子となり、家督相続を受けた彦根藩筆頭家老の木俣守安は、当然、北条遺臣の血を濃く引き、三河武士や、木俣守時・守勝の血統を継いでいないため、これら本来の血統を引く一族が、同じ井伊家中(かちゅう)に在籍していると、養子出身の守安は、やりにくい上、立場を圧迫されない状況が危惧されたので、守安の養父にあたる木俣守勝が、不穏の芽を摘むため、弟(あるいは、兄弟の子である甥)などの一門・連枝を、当時は、同じ国内に領地・本拠地があった上野国大胡城主牧野氏などに転籍させた(あるいは、出したか、追い出したか、出て行った)。 木俣守時・守勝と血縁がある同姓一門の木俣氏には、井伊氏家中(かちゅう)に、居場所がなかった。あるいは、なくなってきたということもできる。 徳川旗本であった木俣守勝が、関東入封後に、井伊氏の御付人となったとき、木俣守勝は、自分との関係が微妙な近親者を井伊氏家臣団に、はじめから入れずに、近場の上野国大胡城主牧野氏になど付属させた。または、井伊氏の御付人となったときは、分家・連枝ではなく、家族扱いであった男子を、井伊氏家中において、分家・独立させずに、上野国大胡城主牧野氏などに転籍させた。
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