大和松永氏とは? わかりやすく解説

大和松永氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/01 05:57 UTC 版)

松永氏」の記事における「大和松永氏」の解説

大和松永氏は、松永久秀を祖とする戦国大名であるが、久秀は出自不詳とされていたが、近年の研究においては山城の石清水八幡宮近辺氏族である可能性指摘され、そのために同じ山城出身美濃乗っ取った斎藤道三旧知間柄にあったという説も存在する。 久秀は細川氏仕えていた三好長慶右筆となり、京都奉行から三好氏宰相となる軍事面築城において活躍し大和遠征して多聞山城築き永禄3年1560年)には陪臣の身でありながら主家同様に室町幕府相伴衆にまで列せられている。弟の松永長頼軍人として活躍丹波実質的に支配するまでになった。 翌永禄4年1561年)には長慶の弟である十河一存急死し永禄6年1563年)には長慶の子である三好義興死去しており、久秀の毒殺説存在するまた、永禄7年1564年)の長慶の弟・安宅冬康の死は久秀が長慶讒言して殺させたものであり、久秀は三好氏乗っ取り企んでいたという。 同年長慶病死し三好氏弱体化すると、永禄8年1565年)には、13代将軍足義輝殺害する永禄の変)。そして三好三人衆対立しながらも畿内において台頭するが、永禄11年1568年)には義輝の弟である足利義昭を新将軍として報じた尾張織田信長上洛すると、久秀は名器九十九髪茄子信長献上して降伏し信長の家臣となっている。 信長将軍義昭通じて畿内において影響力強めるが、元亀年間信長義昭敵対し義昭浅井長政朝倉義景石山本願寺などの畿内勢力をはじめ甲斐武田信玄など遠方勢力迎合し信長包囲網形成する。久秀は信玄とも外交通じ信長包囲網呼応するが、元亀4年1573年)には信玄急死により武田氏西上作戦から撤兵し、信長は反信長勢力撃破し義昭は京から追放され室町幕府滅亡、久秀は再び信長服従している。 天正年間には安芸毛利輝元の下へ亡命した義昭が再び反信長勢力迎合し天正5年1577年)にはこれに応じた越後の上謙信能登加賀侵攻呼応して、再び信長対抗し信貴山城立て籠もる信貴山城の戦い)。 しかし、織田軍は手取川の戦い謙信敗北していたもの十分な余力残していたため、久秀は各個撃破戦略を採った織田軍にあえなく追い詰められた。久秀は信長かねてから所望していた古天明平蜘蛛抱いて爆死したという。また久秀の嫡男である松永久通自害しており、長頼も永禄8年反抗勢力討ち取られていたため、戦国大名としての松永氏は完全に滅亡した一方で出家して放浪であった久秀の子松永永種存命しており、永種の子である松永貞徳俳人として名を残したという。なお、尾張藩松永国華という儒者もいたが、この人物も子孫とされている。他にも、久秀の甥で長頼の子内藤如安キリシタンとして名を残したが、江戸時代禁教令触れて国外追放となっている。 また、『北肥戦誌(九州治乱記)』の記述であるが、龍造寺隆信に気にいられ光照寺住持となった「空圓」という旅僧がおり、自らの氏素性周囲明かさないでいたのであるが、天正5年12月隆信千々石直員(子の澄員の間違いか?)の城を攻める場に同行した際、龍造寺勢が崩れかかると自ら長刀掴んで敵勢討ち入り、「我は松永弾正(久秀)が弟なるぞ。出家とて侮るなかれ」と発して奮戦し討ち死にしたとある。

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