大口信夫とは? わかりやすく解説

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大口信夫

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/09/24 01:02 UTC 版)

大口 信夫(おおぐち のぶお、1917年大正6年〉7月10日[1] - 1994年平成6年〉1月28日[1])は、日本の外交官

ブラジルサウジアラビアポルトガル駐箚特命全権大使を務めた。

サンパウロ総領事在任中の1970年3月11日に、都市ゲリラによる誘拐事件で日本人外交官初めての人質となった。4日後の3月15日に無事解放された。

来歴

1917年大正6年)愛知県豊橋市で政治家・大口喜六の4男[2]として生まれる。1942年昭和17年)東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、外務省入省。短期現役海軍主計科士官(9期)を志願し、同年9月に海軍経理学校に入校[3]。1943年1月、海軍主計中尉に任官し経理学校を卒業[3]。1944年5月、主計大尉に進み終戦を迎えた[3]

1945年(昭和20年)外務省に復帰。以後、ジュネーヴ領事イタリア大使館一等書記官ボンベイ総領事メキシコ大使館公使を務めた。

1969年から1972年までサンパウロ総領事。サンパウロ総領事在任中の1970年3月11日夕刻、総領事館から公邸への帰路、誘拐事件に遭遇。誘拐犯の要求は政治犯5人の釈放とメキシコ亡命であり、ブラジル政府は要求を受諾。釈放された政治犯がメキシコへ到着した同年3月15日の夜になって、大口総領事は無事に釈放された[4]。4日間に渡って人質となった大口総領事の「毅然とした態度がテロリストにも畏怖心を与え、拉致されている間も終始紳士的に応じたと記されています。解放するため公邸近くまで車で送ってきたテロリストは、別れ際に握手を求めた」[5]と言われる。

その後、1975年から1977年までポルトガル1977年から1979年までサウジアラビア1980年から1983年までブラジル特命全権大使を歴任した。

1983年(昭和58年)外務省を退官した後、住銀リース(株)顧問を務めた。

イランイタリアパラグアイポルトガルブラジル各国より勲章受章。

1987年(昭和62年)勲二等旭日重光章受章[6]

逸話

外国の郷土玩具を取集し、死後、豊橋市に寄贈した[2]

著書

  • 大口信夫(著)『外交官誘拐さる』ダイヤモンド社, 1989/12/1  ISBN:4478170215

脚注

  1. ^ a b 『「現代物故者事典」総索引 : 昭和元年~平成23年 1 (政治・経済・社会篇)』日外アソシエーツ株式会社、2012年、221頁。
  2. ^ a b 『豊橋百科事典』106頁「大口喜六」。
  3. ^ a b c 『海軍主計科士官物語〈短現総覧〉』53、535頁。
  4. ^ 「大口総領事、無事に帰還 四日ぶり、元気で 最後まで緊張の駆引」『朝日新聞』昭和45年(1970年)3月16日夕刊、3版、1面
  5. ^ 「テロリストにも感銘を与えた、日本人外交官のサムライ魂」
  6. ^ 「著者略歴」大口信夫著『外交官誘拐さる』ダイヤモンド社 (1989/12/1)

参考文献

  • 『海軍主計科士官物語〈短現総覧〉』浴恩出版会、1968年。
  • 豊橋百科事典編集委員会編『豊橋百科事典』豊橋市文化市民部文化課、2006年。



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