多目的ダム化と愛媛分水への発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/23 23:41 UTC 版)
「柳瀬ダム」の記事における「多目的ダム化と愛媛分水への発展」の解説
戦後内務省は洪水調節を付加した多目的ダムとして計画修正を愛媛県に要請、これを受けて1948年(昭和23年)より建設省に施工を委託する形で建設は開始された。途中ジェーン台風によって工事は中断するが1953年(昭和31年)に完成。この間1950年(昭和25年)には銅山川分水の仮通水が行われ、悲願の分水が実現することとなった。ダムの形式は重力式コンクリートダムで高さは55.5 m、洪水調節・灌漑・上水道・工業用水・発電が目的である。尚、徳島県との合意事項として銅山川下流への一定量の河川維持用水放流を義務付けた(責任放流)が、この責任放流は早明浦ダム(吉野川本川)完成による愛媛分水事業分担により義務が廃止された。 ダム湖は「金砂湖」と命名されたが、これは1300年以上前の孝徳天皇の時代に、この付近の銅山川で砂金を採取していたことに由来する。金砂湖は銅山川分水の水源として宇摩地域の水がめとなったが、宇摩地域の悲願の陰で柳瀬集落160戸の住宅と169 haの農地が水没した。ダムは愛媛県管理から建設省(現国土交通省四国地方整備局)に管理が委譲された。2021年3月からは、全国で初めて国土交通省が管理者のまま水資源機構に管理業務を委託している。 銅山川分水は愛媛分水と名を変え、柳瀬ダム完成後、水源の更なる確保のために1975年(昭和50年)下流に新宮ダムが、2000年(平成12年)には上流に富郷ダムが建設された。また、新居浜地域のコンビナートに工業用水と電力を供給するため、最上流部には住友グループの系列である住友共同電力株式会社によって別子ダムが建設されている。
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