多摩美での教育活動
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1963年には晩年まで長く住む横浜市南区六ツ川に転居。この場所は大辻清司曰く「横浜市で2番目に高い丘の上」であり、斎藤曰く「晴れぐあいがいいと、海と房総の山並みが見える」場所にある。アトリエながら南側にも大きなガラス戸があり、その外壁には訪れた人によるサインや落書きが描かれている。1964年には多摩美術大学教授に就任し、斎藤義重教室からは関根伸夫、吉田克朗、本田眞吾、成田克彦、小清水漸、菅木志雄など、「もの派」の美術家が数多く生まれた。二村裕子によると多摩美のほとんどの学生が斎藤教室を選択したという。関根は東京藝術大学受験に失敗して入学した多摩美で表現主義的抽象を追い求めていたが、3年時に教授に就任した斎藤と出会ってスタイルを覆された。 1964年には長岡現代美術館のために壁面レリーフと前庭を制作している。アメリカ合衆国の美術館を「新しい日本の絵画と彫刻展」が巡回した関係で、1965年から1966年には半年間ニューヨークに暮らし、ジャスパー・ジョーンズ、草間彌生、荒川修作、河原温などと出会った。アメリカでは実験音楽家ジョン・ケージの音楽会を鑑賞したり、前衛芸術運動団体フルクサスの公演を鑑賞している。「ドリルの時代」以後には、合板にラッカー塗料を塗った明快な作品が特徴であり、「クレーン」シリーズや「ペンチ」シリーズなどを制作した。 1969年には多摩美紛争で大学理事会と対立し、1970年以降は同大学で一切の講義を持つことはなかった。1971年には磯崎新が設計した福岡相互銀行本店の応接室Aのインテリアデザインを手がけ、1972年には京都ロイヤルホテルのロビーにあるレリーフ彫刻を制作した。1973年に多摩美術大学を退職。同1973年にはエジプトを旅行し、ピラミッドの造形に刺激を受けた。1974年には針生一郎や中原佑介などとともに現代文化センター(CCC)を設立。1978年には東京国立近代美術館で初期からの作品108点を回顧する「斎藤義重展」が開催された。
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