多摩・試衛場とは? わかりやすく解説

多摩・試衛場

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 07:57 UTC 版)

土方歳三」の記事における「多摩・試衛場」の解説

天保6年1835年)、武州武蔵国多摩郡石田村現・東京都日野市石田)に農家土方義諄(隼人)と恵津の間に生まれる。10兄弟末っ子であった土方家は「お大尽だいじん)」と呼ばれる多摩豪農であったが、父は歳三の生まれる3か月前の2月5日結核亡くなっており、母も歳三が6歳のときの天保11年7月1日1840年7月29日)に結核亡くなっている。また長兄の為次郎眼疾のため、次兄喜六家督継ぎ隼人襲名、その妻・なかによって養育された。生家には、歳三が少年のころに「我、壮年武人成りて、天下に名を上げん」と言って植えたという「矢竹」がある。 これまで[いつ?]、11歳のときに江戸上野の「松坂屋いとう呉服店」(現・松坂屋上野店)へ奉公上がり、すぐに番頭喧嘩をして郷里戻ってきたと伝えられていたが、近年[いつ?]発表され石田村人別帳控により、数え年11歳のときは石田村在住しており、奉公には出ていないことが判明した欠損もあるが、この人別帳から、歳三が奉公出ていたのは数え14歳24歳10年間と考えられるようになった。また17歳のときに松坂屋上野店支店である江戸伝馬町木綿問屋上野店店に対し、亀店(かめだな)と称された)に奉公上がり、そこで働いていた年上の女性を妊娠させてしまうといった問題起こして郷里戻ったという説もあるが、前述人別帳存在から現在ではその信憑性疑問視されており、どこへ奉公していたかは詳しく判明していない。 その後、歳三は実家秘伝の「石田散薬」を行商しつつ、各地剣術道場試合重ね修行積んだ。 姉・らんは姉弟従兄弟でもある日野宿名主佐藤彦五郎嫁いでおり、歳三も彦五郎宅にはよく出入りしていたと言われる。彦五郎大火乗じて祖母目の前で殺害され周囲や自らの身の危険感じたことを契機井上源三郎兄・井上松五郎勧め天然理心流入門し自宅一角道場開いていた。そんな縁から彦五郎試衛館近藤勇義兄弟契り結んでおり、天然理心流支援した。 歳三はその稽古場指導来ていた近藤出会い安政6年1859年3月29日天然理心流に正式入門している。文久元年1861年)、近藤天然理心流4代目宗家襲名記念に紅白の野試合催され、歳三は紅組大将を守る役で出場した文久3年1863年2月試衛館仲間とともに江戸幕府第14代将軍徳川家茂警護のための浪士組応募し京都赴く

※この「多摩・試衛場」の解説は、「土方歳三」の解説の一部です。
「多摩・試衛場」を含む「土方歳三」の記事については、「土方歳三」の概要を参照ください。

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