塘沽協定、日中戦争
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熊斌別影Who's Who in China 4th ed. (1931) 1927年(民国16年)、馮玉祥が国民革命軍に正式に加入し第2集団軍に改組されると、熊斌は第2集団軍総参議に任ぜられた。同年8月、国民革命軍総部上将高級参謀に転じ、12月には湖北省政府委員も兼ねている。翌年2月、国民政府軍事委員会委員となり、3月には東北特別委員会委員も兼ねた。11月には軍政部航空署署長に起用され、1929年(民国18年)4月には中国航空公司副理事長にも就任している。1930年(民国19年)の中原大戦では馮に従って反蒋介石派として参戦し、前敵総司令部参謀長を務めた。しかし中原大戦は反蒋派の敗北に終わり、熊も下野した。 1931年(民国20年)2月、熊斌は国民政府文官処参事として復帰し、5月には国民政府参軍に転じた。1932年(民国21年)9月、参謀本部総務庁庁長に移り、1933年(民国22年)には同本部第2庁庁長も兼任している。以後、華北での対日折衝事務に参画し、同年5月の塘沽協定締結に際しては、軍事委員会北平分会総参議として中国側首席代表を務めたが(日本側の代表は関東軍参謀副長の岡村寧次)、事実上は分会会長何応欽の意を受けての任務であった。1935年(民国24年)4月、熊は参謀本部次長に就任し、1936年(民国25年)1月には陸軍中将銜を授与されている。 日中戦争(抗日戦争)が勃発した1937年(民国26年)7月、熊斌は第3戦区参謀長に任命された。翌年2月、軍令部次長に転じている。1939年(民国28年)6月、軍事委員会軍事新聞局局長に任命され、12月には軍事委員会弁公庁主任代理を兼任した。1940年(民国29年)5月、軍事委員会西安弁公庁副主任となり、8月には主任代理を務める。1941年(民国30年)6月、陝西省政府主席に就任し、同省軍管区司令・防空司令・保安司令なども兼任した。1944年(民国33年)3月、軍令部次長に復任している。1945年(民国34年)5月、中国国民党第6期中央監察委員候補に選出された。
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