基皇太子の誕生と夭折
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神亀4年(727年)閏9月、藤原四兄弟の妹で聖武の夫人であった光明子(安宿媛)は贈太政大臣藤原不比等邸で皇子を生んだ。天皇は喜び、1週間後に天下に布告し、大辟の罪(死罪)以下の罪を免じ、百官に物を賜り、皇子と同日に生まれた子には、布1端、綿2屯、稲20束を与えることにした。さらに、親王以下、左右の大舎人・兵衛・授刀舎人・中宮舎人・雑工舎人・太政官家の資人・女孺に至るまで、身分に応じて物を与えている。その1ヶ月後には、太政官と八省は、皇子の誕生を祝賀し、皇子のための玩好物(おもちゃ)を献上し、盛大な祝宴が開かれた。同日、天皇は詔を発し、生後間もない皇子を皇太子にすることを決定した。翌日、僧綱と僧尼90人が、表を奉って、皇子の誕生を祝賀した。しばらくして、従二位大納言の多治比池守は、百官の史生以上のものを率いて、故太政大臣邸へ赴き、皇太子を拝見した(この中に長屋王の名前は入ってはいない)。その1週間後、皇太子を出産した夫人、安宿媛に食封1000戸が与えられた。 その翌年の同5年(728年)7月、三品の新田部親王に明一品が与えられたが、翌月、親王の統率下にあった授刀舎人寮が切り離され、拡大改組されて中衛府となり、大将・少将・将監・将曹の四等官以下、府生6名、番長4名、中衛300人、使部以下若干名を置いた。その職掌は常に内裏にあり、天皇の周囲を警備することで、天皇の親衛隊ともいうべき役割であった、初代大将として藤原房前が任命されている。しかし、その頃になると、皇太子の病が治らず、天皇は三宝に頼り、観世音菩薩像177体を作らせ、観音経177部を写し、仏像を礼拝し、経典を転読して、一日行道を行った、という。その2日後には東宮へ皇太子の見舞いに行き、皇祖の諸陵に平癒祈願の幣帛(みてぐら)を奉らせている。 以上のような祈願の効果なく、皇太子は翌月、薨去した。数日後、平城宮の北部の那富山(那保山)に葬り、天皇は3日間廃朝した。皇太子は幼かったので、通常の葬礼は行わず、在京の官人以下朝廷に仕える人々と、畿内の人民らは白い喪服を3日間身につけ、畿内諸国の郡司らは挙哀を3日間続けた、とある。 このような状況の中、長屋王がどのような動静を行ったのかは定かではない。しかし、その翌年、事件が起こり、更なる悲劇が皇室に襲いかかる。
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