基皇太子の誕生と夭折とは? わかりやすく解説

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基皇太子の誕生と夭折

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:35 UTC 版)

長屋王の変」の記事における「基皇太子の誕生と夭折」の解説

神亀4年727年)閏9月藤原四兄弟の妹で聖武夫人であった光明子安宿媛)は贈太政大臣藤原不比等邸で皇子生んだ天皇喜び1週間後天下布告し大辟の罪(死罪)以下の罪を免じ百官に物を賜り皇子同日生まれた子には、布1端、綿2屯、稲20束を与えることにした。さらに、親王以下、左右大舎人兵衛授刀舎人中宮舎人・雑工舎人太政官家の資人女孺に至るまで、身分に応じて物を与えている。その1ヶ月後には、太政官八省は、皇子誕生祝賀し、皇子のための玩好物おもちゃ)を献上し盛大な祝宴開かれた同日天皇は詔を発し生後間もない皇子皇太子にすることを決定した翌日僧綱僧尼90人が、表を奉って、皇子誕生祝賀した。しばらくして従二位大納言多治比池守は、百官史生上のものを率いて、故太政大臣邸へ赴き、皇太子拝見したこの中長屋王の名前は入ってはいない)。その1週間後、皇太子出産した夫人安宿媛に食封1000戸が与えられた。 その翌年の同5年728年7月三品新田部親王明一品が与えられたが、翌月親王統率にあった授刀舎人寮切り離され拡大改組されて中衛府となり、大将少将将監将曹四等官以下、府生6名、番長4名、中衛300人、使部下若干名を置いた。その職掌は常に内裏にあり、天皇周囲警備することで、天皇親衛隊ともいうべき役割であった初代大将として藤原房前任命されている。しかし、その頃になると、皇太子の病が治らず天皇三宝頼り観世音菩薩像177体を作らせ、観音経177部を写し仏像礼拝し経典転読して、一日行道行った、という。その2日後には東宮皇太子見舞い行き皇祖諸陵平癒祈願幣帛みてぐら)を奉らせている。 以上のような祈願効果なく、皇太子翌月薨去した。数日後平城宮北部の那富山(那保山)に葬り天皇3日廃朝した。皇太子幼かったので、通常の葬礼行わず在京官人以下朝廷仕え人々と、畿内人民らは白い喪服3日間身につけ、畿内諸国郡司らは挙哀3日続けた、とある。 このような状況の中、長屋王どのような動静行ったのかは定かではない。しかし、その翌年事件起こり更なる悲劇皇室襲いかかる

※この「基皇太子の誕生と夭折」の解説は、「長屋王の変」の解説の一部です。
「基皇太子の誕生と夭折」を含む「長屋王の変」の記事については、「長屋王の変」の概要を参照ください。

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