地形と戦略
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「プレーリーダンの戦い」の記事における「地形と戦略」の解説
プレーリーダンは20マイル (32 km) 四方の開けたプレーリーの全周を主に深い松林が囲むという、アーカンソー州南西部の特徴ある地形だった。1864年には、リトルロックの南西100マイル (160 km) ほどにある良く知られたランドマークだった。このプレーリーは交差点にあり、西にはワシントン市があって、1863年9月にリトルロックを放棄してからは、アメリカ連合国アーカンソー州の州都になっていた。プレーリーの東には防御を厚くした都市カムデンがあり、多くの南軍部隊が本部にしていた。南には戦略的なリトルレッド川が流れ、その先にシュリーブポートがあった。 プレーリーダンは、1863年9月10日に北軍がリトルロックを占領した後は戦略的な場所となった。北軍が市内に入ってくると、南軍は急ぎ州の公式文書を集めて、その政府の所在地をワシントンに移した。南軍は南西方向に撤退するときに、ベントンからアーカデルフィアに至る古い軍事道路沿いの数か所に防御工作物を建設し、プレーリーダンの北縁には土と木材で広大な胸壁を建設した。プレーリーで南軍が敗北すれば、北軍にとってワシントンへの道が開けることを意味した。しかし、プレーリーダンは南軍にとって防御に難しい問題があった。一方で、広く開けた平原は防御する砲台にとって砲撃するのに適した草原だった。他方で、その開けた田園が、攻撃する側にとっては部隊を操作し、固定された守備側の塹壕の側面を衝くためのたっぷりとしたスペースを提供することにもなった。リトルロックからプレーリーダンまでの道沿いに造られた南軍の厚い防御用障壁の大半は、奴隷の労働力を使って建設されていた。一方、南軍ゲリラ騎兵の動き回る集団が、リトルロックから行軍してくる北軍に嫌がらせを行うべく派遣されていた。
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地形と戦略
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「ドーチェスター高地の要塞化」の記事における「地形と戦略」の解説
ウィリアム・ハウ将軍を筆頭とするイギリス軍の指導層は以前からドーチェスター高地の重要性を認識していた。それはチャールズタウンにある高地と共にボストン市とその外港を見下ろしていたからだった。当初サミュエル・グレイブス提督、後にはモリヌー・シャルダム提督が指揮するイギリス海軍が、陸のイギリス陸軍を守り、また包囲された市内に物資を運んでいたので、港が重要な要素だった。包囲戦の初期にイギリス軍はこれらの高地を確保する作戦を持っていた。手始めにチャールズタウンの高地よりも港に対する見晴らしの良いドーチェスター高地を占領するつもりだった。バンカーヒルの戦い(1775年6月17日)を引き起こす切っ掛けになったのもこの作戦がアメリカ側に漏れたことだった。 ワシントンが1775年に包囲戦の指揮官となったとき、まだ占領されていないドーチェスター高地を確保することも考えたが、自軍はイギリス軍からの攻撃に耐える準備が出来ていないと感じてそのアイディアを斥けた。この高地を抑えることについて1776年2月初旬にも再度議論されたが、土地の安全委員会はイギリス軍が強力であり、重要な火薬など軍需物資の供給量が少ないと考えたので、その時はこの作戦を請合えなかった。2月が終わるまでにノックスがタイコンデロガ砦から大砲を運んで到着しており、火薬や砲弾も補充されていた。ワシントンは行動を起こす時だと決断した。
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