土地の接収についてとは? わかりやすく解説

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土地の接収について

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 06:32 UTC 版)

奥間レスト・センター」の記事における「土地の接収について」の解説

米空軍による奥間レストセンター広報 (英語版) によると、沖縄戦後高齢土地所有者7人にマッギー中佐なる人物ポケットマネー追加し50ドルという「公平な金額」を支払った、「これが町長たちを喜ばせた」、人々日本の本土働きに行くことを拒み積極的に奥間建築作業参加した等が紹介されているが、実際には、登録されている土地所有者高齢者の7人のみということはありえない。 (2018年時点での地主数は513人) 北部やんばる圧倒的な餓死者を生み出した沖縄戦から2年後1947年1948年米軍北部数少ない平地良質な農耕地を保養施設として接収した際、国頭村大宜味村村長村民1266名の署名をもって連名嘆願書書き農地接収強く抗議している。1946年頃まで多く県民収容所収容され、また那覇はじめとして中南部土地基地として接収されていたため、人々食糧問題極めて深刻であった奥間休養中心地定められ地域はその位置及び農耕としての観点から我々のの最も有益な土地であります平常収穫年には、この地域甘藷年4ポンド生産するであります。この地域生産物の中の甘藷(読み取り不明)類で、わがだけでなく大宜味村生活していたのでありますスイカトマトキャベツサトイモ等の新鮮野菜東京及び阪神地区遠くまで輸出されおりました。この理由当地沖縄デンマークなりと呼ばれておったのであります。なお、この土地砂地で高い地温があり、春の間、自然熱の苗床と言われている程で、春季には甘藷収穫は他の土地より大量でありますしかしながら現地軍が1947年にこの土地休養中心地設定した時、それはこの特別地区頼っておった農民たちにとっては全くの打撃であったでありますそのとき村民から甘藷集めて、それを農民たちに配給し援助することができたのでありましたが、我々はまたまた1948年5月1日までに純農耕22エーカー明け渡すようにとの命令受けましたその結果、生活恐慌がその土地関係している310家庭の1266名の人々50%急にもたらされたのでありますそして現在食料事情では我々はもはや甘藷集めて彼等援助することはできない立場あります。そして我々は社会政策見地において、この問題について非常な関心を持つものであります貴官特別なご配慮とご同情を二カ村民嘆願書垂れんことを懇請する次第であります。この全制限地域解放対す即刻認可を、国頭大宜味村1266名の署名をもって願いあげます。 — 歎願代表者 国頭村新里福 大宜味村長 平良仁一、1948年4月18日 1986年 国頭村奥間レスト・センター全面返還要望している。 1991年10月 国頭村跡地利用再開発基本構想策定した

※この「土地の接収について」の解説は、「奥間レスト・センター」の解説の一部です。
「土地の接収について」を含む「奥間レスト・センター」の記事については、「奥間レスト・センター」の概要を参照ください。

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