国際連盟で活動
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「ロバート・セシル (初代セシル・オブ・チェルウッド子爵)」の記事における「国際連盟で活動」の解説
第一次世界大戦後、国際連盟が発足してから1946年に消滅するまでのおよそ30年間、セシルの生活はほとんどが国際連盟のために費やされた。また、国際連盟連合(英語版)の会長も務めた。パリ講和会議で、彼は国際連盟に関するイギリスの代表を務めた。日本が国際連盟の規約に人種差別撤廃の規定を盛り込もうとした際には、強硬に反対し、最終的にはこの案はアメリカ大統領ウッドロウ・ウィルソンによって退けられた。エスペランティストのセシルは1921年に言語の問題を解決するためにエスペラント語を国際連盟の作業言語にする提案を書き、後に第二次エチオピア戦争やミュンヘン会談での宥和政策を批判するなど熱心な集団安全保障の推進者でもあることから1922年には相互援助条約案を起草するも何れも廃案にされた。 1920年から1922年には南アフリカ自治領の国際連盟代表を務め、1923年にはアメリカ合衆国に5週間滞在し、アメリカの民衆に国際連盟の意義を伝えた。1923年から1924年には王璽尚書の地位に就き、1924年から1927年にはランカスター公領大臣を務めた。 1927年にジュネーヴで行われた海軍会議では、イギリスがイギリス帝国及びその貿易や情報を守る為に少なくとも70隻の巡洋艦が必要だとするイギリスの主張にアメリカが異を唱えて会議が不調に終わった。巡洋艦のサイズと大砲の口径で譲歩する代わりにイギリスの巡洋艦を70隻から50隻に削減する案がアメリカから出されたが、イギリス政府は巡洋艦を減らさずに会議から降りてしまった。代表団の一員として参加していたセシルはこれを見て、政府の役職を辞任した。 セシルは1923年から1945年までイギリスの国際連盟の代表を務め、フランスで世界平和連合や国際平和キャンペーンと呼ばれる運動をフランス人民戦線の左派系政治家らとともに興し、会長を務めた。またこの頃には、国際連盟での講演を集めた1928年のThe Way of Peace、自身と国際連盟の関わりを書いた1941年のA Great Experiment、1949年の詳しい自伝All the Wayなどの著書を出版した。
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